ごきげんよう!さわこです。
遠藤周作 「銃と十字架」その5
いよいよ、最終回です。
結論を先に書いておきます。
ペドロ岐部たちがぶつかった問題は、
西欧基督教の教理の矛盾ではなかった。
基督教と基督教国との矛盾だった。
愛を教える基督教を信奉する国々が、東洋を侵略し、
その町や土地を奪っているという問題であった。
では抜粋します。
181ページ
拷問に転んだ者には、神がその愛にかかわらず、かほどの責苦を受けている自分たちを助けようともせず、沈黙を守っていることが耐えられなかったのだ。神がなぜ、これほどの苦患を信徒たちに与えるのか、その意味をはかりかねるようになったのである。
一方、あくまで拷問に屈しなかった者は、この責苦をやがて自分たちが受ける永遠の至福のための試練と考えた。
彼らは、その時、イエスもまた同じような肉体の苦痛を生前、味わったことを思い出し、イエスの受難に倣おうとしたのである。
拷問の中で神の恐ろしい沈黙を感じた者は棄教し、神もまた自分と共に今、苦しんでいるのだと考えた者は、この責苦に耐え抜こうとしたのである。
184ページ
ペドロ岐部は危険極まりない長崎に松田神父と共に姿を現した。
日本切支丹の戦場に参加することができたのだ。
苦しんでいる信徒たちを力づけ、拷問と死とを怖れて信仰を棄てようとする者を励まし、秘蹟を授け、告解をきき、彼らと共にその苦悩をわかちあう潜伏神父の一人となったのである。
187ページ
小西行長の孫小西マンショは18年前マカオに追放され、インドのゴアに渡り、ローマで学び神父となって日本に戻って来た。
死ぬための帰国であった。
188ページ
1633年、「この年、日本では各会の聖職者34人と日本切支丹信徒46人とが落命した」
34人の聖職者のうち24人が岐部の属するイエズス会員だった。
189-190ページ
イエズス会修道士福永慶庵、修道士伊予ジュアン、中浦ジュリアン、逆さになって穴に吊らされる穴吊りの刑で絶命。
これら神父と修道士たちは数日間もの穴に逆さに吊るされ、その責苦に耐え信仰を棄てず息を引き取ったのだ。
管区長フェレイラ神父は5時間後についに棄教した。日本在住23年。潜伏して布教をつづけた54歳の神父が信仰を棄てた。
その後、奉行所の手先となった。奉行所は残酷だった。
生ける屍のようになったフェレイラ神父に死刑囚沢野某の祭司を押し付け、沢野忠庵と名乗らせ
通訳や棄教の勧告と言う仕事をさせた。その惨めきわまるフェレイ神父を信徒たちはユダに重ね合わせた。
だが、ユダになる可能性はこの頃、すべての宣教師にも信徒にもあったのである。
192ページ
1633年、ペドロ岐部が長崎から仙台に逃亡したのは、生きながらえるためではなく、生命の安全な場所を見つけるためでもない。
遅かれ早かれ、逮捕され、訊問と拷問をうけ、処刑されることは分かっていた。
その死までの短い間に、1人の信徒でも力づけ、慰め、勇気を与えるのが潜伏司祭としての使命だったから逃亡したのである。
196ページ
ペドロ岐部がこの勝ち目のない戦いのために東北に逃亡したのは、第一に彼が信徒たちと苦しみを分かち合うためだった。
第二には自らの無償の生涯と報われざる死によって、本当のキリスト教とは、ただ愛のためにだけあることを証明したかったのだ。
当時の日本人が誤解しているように、本当のキリスト教は異邦人の国や土地を蹂躙し、奪うような宗教ではないことを示しかったのだ。
そして植民地獲得に狂奔するヨーロッパのキリスト教国民の行動とイエスの教えとは何の関係もないことを残り少ない自分の生涯を賭けて同胞に見せたかったのである。
そう、これが切支丹迫害下の日本人神父の使命であり義務だった。
少なくとも、ペドロ岐部は長い世界への旅の往復、この考えを持つに至った。
それがあの植民地主義時代、そのためにキリスト教弾圧が起こった日本での邦人神父が証明せねばならない使命だと考えたのである。
221ページ
有馬神学校の殉教した卒業生は誇りと栄光に美しく輝いている。
彼らのある者は、その死後ローマ法王から聖者に次ぐ福音の称号を与えられた。
現在でも日本人の信徒たちは、その福者をほめたたえ、その力添えを求めて祈る。
けれども、その一方、これら誇りにかがやく卒業生のかげに、力なく苦しくうなだれている一群の卒業生や元教師がいる。
それは拷問や他の理由で、自己信念を貫けなかった宣教師や卒業生である。
彼らの印来な生涯は、日本切支丹史の中で教会によってできるだけ控えめに記録され、声高く語られはしない。
223ページ
有馬神学校の生徒や卒業生がぶつかった問題は、西欧基督教の教理の矛盾ではなかった。
それは、基督教と基督教国との矛盾だった。
愛を教える基督教を信奉する国々が、東洋を侵略し、その町や土地を奪っているという問題である。
のみならず、この侵略と植民地政策とをキリスト教会が黙認し、占領した地域に宣教師を送っているという事実である。
当時の教会もしくは宣教師から言えば、異端の宗教に染まり、霊魂の救いを失っている民族にただ一つの神の教えを広めるため、武力征服もやむなしという考え方が宣教師にもあったのだ。
宣教師たちは征服した土地に教会、病院、学校を建て、原住民の基督教化を行うこともパウロのいう「異邦人への伝道」だと考えていた。
だが、侵略される側、侵略の危険を受ける国では、この善意はまさに偽善である。
自分たちの師の国々が、侵略的意図を隠しながら、キリスト教の布教を行っている。
この矛盾は当初こそ表面には出なかったものの、やがてその実態が海外に送られた生徒の一部が直接目撃するに従って大きく露見した。
千々石ミゲルも、荒木トマス神父も、帰国前から西欧基督教国の植民地政策に深く傷つけられ、日本に戻ると棄教した。
荒木トマスの悲劇は棄教を奉行所に約束しながら、なおイエスのお教えを忘れられぬことだった。
後ろめたさと屈辱感は転んだあとも荒木トマスの心にいつまでも残った。
有馬神学校の卒業生たちが苦しんだもう一つの問題は、宣教師たちの一部が持つひそかな日本人不信感と軽蔑感である。
宣教師たちには日本を愛し、日本人を高く評価したヴァリニャーノ神父のような司祭たちと、
日本人を野蛮にして狡猾とみなす管区長カブラル神父のようなグループとの二派があった。
・・・そのためにキリスト教そのものにも懐疑をいだいて棄教するに至った者もいる。
キリスト教国の侵略と植民地政策、そして宣教師の日本人蔑視の感情。
その教えとはあまりに矛盾した西洋教会の現実と直面した有馬神学校の卒業生たちは
この矛盾を克服できなかったからキリスト教から離れたのである。
一部卒業生の棄教の原因は必ずしも棄教者側にだけあったのではない。
当時の教会や宣教師にもあったのだ。この矛盾は、当時の西洋の矛盾にほかならなかった。
神学校ではじめて西洋を学んだ日本の生徒たちは、基督教やラテン語、オルガンと同時に西洋の欠陥をも知らねばならなかったのである。
彼らほど、西洋の善意、美点と罪過をまともに受けなければならなかった生徒たちはその後の日本にはなかった。
彼らのその後の運命が苦渋に満ち、子弟も親友もそれぞれ離反せねばならなかったのはそのためである。
ペドロ岐部の波乱と冒険に満ちた生涯にも、この西洋を学んだ最初の若い日本人の苦悩がすべて含まれている。
有馬神学校で彼が触れた西洋のキリスト教はこの男のたましいをひきつけたが、西洋の欠陥が同時に彼を苦しみ続けた。
彼は誰にも頼らずほとんど一人でこの矛盾を解こうとして半生を費やした。その殉教は彼の結論であった。
彼は西洋キリスト教のために血を流したのではなかった。イエスの教えと日本人のために死んだのだ・・・。
マラナ・タ
私は中学生の時に、キリスト教とキリスト教国との矛盾を
世界史の教科書の中に嗅ぎつけてキリスト教嫌いになりました。
あるクリスチャンの品性に失望してキリスト教会嫌いになった人もいると聞きました。
教会も、クリスチャンも、神様を崇めることから離れていったら、
神様を誤解させることにつながります。
本当の神様に出会わせてくださいとの祈りは聞かれます。
聖書を真面目に読むことは神様との関係を健やかにしてくれます。
SDAの聖書通信講座によって、聖書を知っていく中で、
イエス・キリスト様に出会ったら、20数年に及ぶ私の誤解はすーと消えました
イエス様とつながっている日々は、きっと迫害の時代の備えになります。