ごきげんよう!さわこです。
信仰の友が御霊に導かれて、サムエル記第一からメッセージを送ってくれました。
彼女をとらえた聖句は二つ。
16:14「さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からのわざわいの霊が彼をおびえさせた」
19:9「わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ」
”サウルはたびたび「神の霊」に試みられていたのです。
サタンからの悪霊でなく「主から来る悪霊」(16:14、19:9)が働いていました。”
サウルは神様から心を離したので、サタンから来る悪霊に悩まされたのだと私は考えていました。
しかし、彼女が示してくれたみ言葉は、「主からの災いの霊」「災いをもたらす主の霊」と、明記されているではありませんか。
“「サウル=悪、ダビデ=善」という単純なストーリーではないと思います。”
彼女の言う通りです。
私は単純に捉えていました。
特に、子どもに話す時には、分かりやすく伝えようとして、聖書のストーリーを単純化してしまいたくなる誘惑にさらされます。
そのために、浅く、表面的に、勧善懲悪物語に仕立て直してしまうのです。
そうすることに、罪悪感などこれっぽっちも持つことなく。
何と罪は巧妙に忍び込んできることでしょう。
クリスチャンには聖句を持って惑わしの霊が働くのです。
何といってもサタンは私たち以上に聖書を知っているのですから。
“これは、サウルにとって悔い改めるチャンスでした。
ダビデが王さまになっても、サウルが悔い改めていれば、別の立場で主の栄光のために用いられたかもしれません。
サウルも、召された初めのころは自分がどのような者かわかっていました。“
“私たちの身の上に起ったことのすべては「主から来るわざわいの霊」に試されているのかもしれません”
しかし、有難いことに、ほむべきかな、われらの主よ。
”その目的は、悔い改め。尊い血潮によって清められ、生まれ変わり、
主の栄光のための働き人となり主にあって成長するためです。”
日常的に私たちの身に起こったことのすべては、それぞれ試されているのですね。
“このときこそ、自分の心の危険を察知する霊性、御霊に従う素直さ、忍耐強い信仰が必要ですね。
私たちには「サウル」のようなところがたくさんあります。問題が起こるとき、
「サタン」の攻撃か「主の試み」か、静まり、御聖霊さまに教えていただくことが大事ですね。”
そうです!
「サタン」の攻撃か「主の試み」か、
静まり、御聖霊さまに教えていただくこと
それだけが防御策なのです。
マラナ・タ
私たちはクリスチャンにならせていただいたのに、
世の人と変わらない思考回路、感情の回路のままでいてよいのでしょうか。
ペンテコステの日に(五旬節、シャブオットの日に)
ゆたかに聖霊が注がれたではありませんか!
私たち自身が聖霊によって新生されているはずなのに、古い人のままでいるとしたら、
イエス様の十字架を無駄にしてしまうのではないでしょうか・・・