ごきげんよう!さわこです。

 

感情的に不快なことは、

イエス様にそっくりそのまま投げ出していいのです。

それがゆだねるということです。

人間関係の些末的なこと一つ一つが

神様にゆだねることの基礎レッスンになるのではないか、

と思います。

 

教会生活、信仰生活の中で、

しばしば聞かれる「ゆだねる」という言葉。

 

それができないと、自分をさらに追い詰めていく信仰者がいる。

そんな人に、さらにさらに

「ゆだねなさい」

「ゆだねていないから苦しいのですよ」

と追い打ちをかける助言者たちがいる。

 

(なぐさめにもなっていやしない)

と、心の中でなんどつぶやいたことだろう。

 

せっかくのアドバイスを無下にすることも出来ずに

「ありがとうございます。おゆだねいたします。」

と、その場から逃れたい一心で、答えたことがある。

 

助言者たちから、「ゆだねなさい」

と言われたら、鍵をかけた部屋の隅に追い詰められたようで、

心は固まり、耳にはシャッターが下りる。

 

人間関係の苦しさを 話したら、

「ゆるしてあげなさい」

「ゆるさないから苦しむのですよ」

赦せない、赦さない、なんて言っていない。

赦せなくなりそうなほどの苦しみだと分かってもらいたいだけ。

言葉のあや。

語彙が少ない、表現力が足りないから、誤解を招く言葉しかつかえないだけ。

 

「ゆだねる」という言葉が、変形しつつ、クリスチャン世界を闊歩していく。

今の私なら、このように答えられるようになった。

 

「感情的に不快なことは、イエス様にそっくりそのまま投げ出していいのです。

それがゆだねるということです。

人間関係の些末的なこと一つ一つが、神様にゆだねることの基礎レッスンになるのです。」

 
マラナ・タ
無器用なキリスト者も四半世紀過ぎると、
目からうろこが一枚落ちた。