ごきげんよう!さわこです。

「・・・人は日の下で行われる御業をみきわめることはできない。

労苦して探し求めても、見いだすことはできない。

知恵ある者もみきわめることはできない。」8:17

 

誰も神について、神がなさることすべてについて、完全には理解できず、疑問の方が多い。

そうだからと言って、神を疑うことがあっていいのだろうか。

 

「あなたのパンを水の上に投げよ。

ずっと後になって、あなたはそれを見いだそう。」11:1

 

そのときには、無駄であったとしか思えないことが、善いことにつながっていた。

人生にはそういうことが起きるのだ。危機が好機となることもあるのだ。

 

故事、ことわざ、格言を次々に思い起こした。

人生万事塞翁が馬。浮世の苦楽は壁一重。禍福は糾える縄の如し。沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり。苦くあれば楽あり、楽あれば苦あり。楽は苦の種、苦は楽の種。

この聖句は、まさにこれらの故事格言と同じことを言っているのだと思う。

聖書には、箴言や伝道の書には、人生訓となることが多く書かれている。

聖書は人生の指南書でもあるのだが、それだけではない。それ以上の、究極の指南書なのだ。滅びるべき人間を神と和解させ、永遠の命に至らせる究極の人生訓なのだ。

 

そういう視点で伝道の書11:1を読んでみると、「パン」とは、イエス様ご自身。イエス様は「命のパン」と聖書には書かれてあるからだ。

この世にサタンが介入して、人間の心に巧妙に入り込んで以来、人間は神から離れてしまった。かたくなになってしまった。誰もが素直に悔い改めるわけではない。イエス様が差し伸べた救いへの御手は、どれだけの人間が無視をし、振り払ったことだろうか。

「水の上にパンを投げる」という言葉には、人間の恐ろしいまでの頑固さや物わかりの悪さが表現されていると思う。

それでも、十字架上で、隣の十字架につけられていた犯罪者はイエス様を信じて信仰告白した。もうひとりの犯罪者は、罵り続けたのだが、二人のうち一人は救われたのだ。そして、ローマ兵のひとりは「まことにこの人は神の子であった」と告白する。

ああ、イエス様の思いは報われなさった。

私がイエス様を知ったのは、いつだったろうか。

カトリックの幼稚園の年長クラスに入園した5歳の時。

中学生のとき、世界史の教科書からキリスト教国の姿に不信感を持った。高校生の時、さらに詳しい世界の歴史に、さらにさらにキリスト教国を軽蔑するようになった。

三十代の後半、聖書通信講座で聖書の全体を学んだときに、キリスト教への偏見がやっと取れたのだった。

39歳でバプテスマに与ったのだから、34年間もイエス様から顔を背けていたのだった。

イエス様というパンを34年間水に投げ捨て続けていたのだと気づかされた聖句となった。

様々な理由で、イエス様を拒絶している人がいる。

パンを水に投げている人がたくさんいる。

イエス様を信じたものたちは、諦めないで福音を宣べ伝えている。

私が34年後に信じたように、ずっと後になって、伝えられた人が信じたことを知ることになるのだ。

 

マラナ・タ

今日の通読は、伝道の書の9章10章だったのだが、うっかり11章まで読んでしまった。

「パンを水に投げよ」から新しい気づきを得られたことの喜びは大きい。