ごきげんよう!さわこです。
「教会との結びつきは、回心の代わりにはなりません。
心が本当に変えられてなければ、
ある教会の教えに賛同することには少しも価値がありません。
回心は神によって新生する体験であり(ヨハネ3:8-11)、
人の心に働きかける神の活動は、測ることができません。
(安息日学校聖書研究ガイド副読本86頁より)
教会との結びつきに社交的な交わりの快適さを感じなくなった時、
そのことによって神様から離れてしまうなら
回心には至っていなかったのかもしれないと思う人に出会ったこともあります。
(しかし、その時こそが、真の回心に至っていなかった自分の信仰を自己吟味するチャンスなのだと考えられないでしょうか)
また、「私は心が変えられました!私はこの教会の教えと働きに賛同しています!ですから教会のために働きたいのです。」
と言う人の言動に「?マーク」を感じたこともあります。しかし、私たちは、心に働きかける神様の活動を測ることができません。
そのような時、私は、心の中で「?マークがどうしても離れないのです」と神様に正直に申し上げます。
そして、
「それは、私自身の信仰の弱さから感じてしまうのでしょうか?
私の罪が妬みを起こすからでしょうか?
自分の情熱や激しい思いを聖霊の促しと思い込んでしまうことがありませんように、
偽りの霊ではなく、自分の思いでもなく、聖霊様の導きに従えますように、
あの方にも私にも、私たち教会員に識別力をお与えください。
神様の御心に適う祝福をお与えください」 と祈ります。
マラナ・タ
私たちの信仰生活のスタートは、さまざまです。それぞれです。
教会員との結びつき、牧師との相性、教会という場が自己実現の舞台となる・・・
これらすべては、きっかけにすぎません。
本当の回心へと信仰が育ちますように。
そのための努力を惜しむことなく、そのための努力をお恵みだと喜べますように。