ごきげんよう!さわこです。

キリストには賛成するが、従うつもりはないと言う人は多い。

 

マタイ・マルコ・ルカ、三つの福音書に載っているイエス様の種まきのたとえ。

道端に落ちた種。

石地に落ちた種。

茨の間におちた種。

どれも実を結ばなかった。

 

この世の心づかいと富の惑わしは否定しても、生き方を変えるためには何もしていないという人も多い。

その心配事は、神と共にある永遠のいのちという観点から、正当化されるだろうか。

欲しいものをすべて手に入れても、神と共にある永遠のいのちを失うとしたらどうだろう。

それでもまだ、それらのものを欲しいと思うだろうか。   

                

            *バイブルナビ聖書 マタイ13:22より

 

イエスの言葉は、頭ではわかる。観念的にはわかる。

イエスの言葉は、心ではわかる。心情的に、情感ではわかる。

イエスの言葉は、道徳観としては、反論はしようがない。

 

しかし そのように、生きていくのは一部の模範的な聖人聖者にまかせておけばよい。

個人的に強要されたくはない。

こんな自分では、だめだ、だめだ、と否定されるのは、気分が悪いではないか。

自分は、一歩離れて、評論家的に、イエスの素晴らしさを批評し、人の心はかくあるべしく

と、語っていると、いい気分になる。それ以上は求めない。

 

私は、イエスについて行かないが、イエスの言うこと、されたことには賛成だ。

イエス様は好きだ。

キリスト教会も好きだ。

礼拝日ごとに、足は教会に向かう。

 

しかし、イエスに従って生きるのは、自分には無理だ。

イエスに従え、と言われるのは、嫌いだ。

従うか、従わないか、それは自分で決める。

 

決める自分の意志は、聖霊に従うのか。

聖霊ではなく、自分の感情のままに決めるのか。

 

「自分」を、握りしめているなら、神様との間の壁を高くしていくばかりだ。

「自分」を、手放すなら、聖霊様は自分の心に入ってくる。

聖霊を拒み続けると、神と自分の距離は、日に日に遠くなっていく。

 

マラナ・タ

聖霊を冒瀆する罪は赦されないと言われた。