ごきげんよう!さわこです。

ある日の聖句日めくりカレンダー

ヨハネ4:24

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

について数日、思いを巡らせていました。

 

神は形のあるお方ではない。だから、神は霊であるとイエス様は言われたのだ。

人間の目に見える存在ではないお方。

私たち人間を、神が御自らご自身の手で土をこねて創造されながら、

姿かたちをもって被造物の前に現れないお方が神である。

 

禁断の実を食することによって罪が介入するまでは、人は神とまみえることができていた。

罪が入ってからは、神と人との間には深い淵が出来てしまったから、

人の目に神は見ることができないお方となってしまわれた。

 

その淵に橋を架けるために、神ご自身が人の子としてこの世界にお降りくださった。

そのお方が、三位一体の神の御子である。

聖書の預言通りベツレヘムでお生まれになり、大工の子としてナザレでお育ちになった。

名前はイエスとつけられていた。イエスの意味は「神は救い」である。

そのイエスが30歳になり公生涯に入られた。

 

聖書の預言通り、人間を罪から救い出すためであり、誤解されている神の真実の姿を人々に知らしめすためである。

見えない神が、イエスによって見えるお方となった。

イエスご自身も「わたしを見たのは神を見たのである」と仰っている。

 

 

私は、神の実体はあっても、人間には見えないお方だから「神は霊である」と書かれているのだと納得している。

しかし、この聖句も「霊」をどのように理解しているかで、受け止め方も違ってくるのではないか。

 

「悪霊」といって天使の長であるルシファーによって神への反逆が起きた時、

天使の三分の一がルシファーの側について悪霊となった。

ルシファーはサタンと呼ばれて悪霊とともに天国から追放された。

 

ヨハネ4:24での「霊」とはもちろん悪霊ではない。三分の二に当たる良い天使の霊ではない。

目には見えない神ご自身を「神は霊である」とイエス様が呼ばれたのだと理解している。

 

イエスが「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)

とイエスが言わた場面は、サマリヤ地方のヤコブの井戸端で出会ったサマリヤ人の女に向けて語られた時であった。

この女は男性遍歴を繰り返し、今も結婚をしないままに1人の男性と暮らしていている女性であった。

人目をはばかって、暑い日盛りに井戸水を汲みに来なければならない彼女に会うために、

イエスはあえてサマリヤ地方を通られたのであった。

イエスは彼女に向かって、こう言われた。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。

そうだ、今、きている。

父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまことをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:23,24)

 

心を低くして神を畏れ敬い礼拝することは、その人と神との関係が修復されなければ、真の礼拝は成立しない。

霊とまことをもって礼拝できるようになるのは肉をまとったイエスが到来されたからである。

イエスが人の子としての姿を持っていない旧約の時代であっても、

心の砕けたへりくだった者(主に従う者)には、霊としてのイエスが、心に住まわれていた。

霊とまことをもって礼拝する人々もいた、と私は思う。

 

 

EGホワイト「各時代の希望上224~226ページ」引用

人は、聖なる山や聖なる宮を求めることによって、天とのまじわりに入れるのではない。

宗教は外面的な形式や儀式に限定されるのではない。

神から出ている宗教だけが神へいたる宗教である。

 

神に正しく仕えるためには、神のみたまによって生まれなければならない。

みたまは心をきよめ、思いを新たにし、神を知り愛する新しい能力をわれわれに与える。

それは神のすべてのご要求によろこんで従う心をわれわれに与える。

 

これが真の礼拝である。それは聖霊の実である。

 

みたまによって、すべての真実な祈りはことばとなり、このような祈りは神に受けられる。

 

魂が神を追い求めるところにはどこでもみたまの働きがあらわれ、神はその魂にご自身をあらわされる。

神はこのような礼拝者を求めておられる。

 

神は彼らを受け入れて、ご自分の息子娘にしようと待っておられる。

・・・中略・・・この女はものごとを感知する心を持っていた。

彼女は最も尊い啓示を受け入れる用意が出来ていた。 

 

それは彼女が聖書に興味を持ち、もっと光を受け入れられるように聖霊が彼女の心を準備していたからであった。・・・・・・彼女は旧約の約束を学んでおり、この預言を悟りたいと望んでいた。

光はすでに彼女の心にさし込みはじめていた。

 

命の水、すなわちキリストが全ての渇ける魂に与えられる霊的生命は、彼女の心のうちに芽生え始めていた。

主の御霊が彼女の上に働いていた。

キリストがこの女にはっきり語られたことばは、自分自身を義とするユダヤ人に向かっては語ることのできなかったことばだった。

・・・イエスは、彼女がこの知識を利用して、他の人たちにイエスの恵みを分け与えることをご存知だった。

                                                                引用終わり

 

 

 

マラナ・タ
異邦人である日本人クリスチャンである私も、サマリヤの女のような祝福にあずかりたいと願う。
私には、神の目に相応しいと思われるものは何もないと思えたとしても、
立派な道徳的でない生き方をしてきた彼女に御霊が望まれたのだ。
その理由は何だろう。
彼女が道徳的にはいまいちであったとしても、彼女には知性があった、賢かった、美人だった
そんなことは書かれていない。
EGホワイトによれば、「彼女は聖書に興味を持ち、旧約聖書にしるされた約束を学んでおり、
この預言を悟りたいと望んでいた」とある。
 
今までの生き方や、心のあり方が、バツ印がいっぱい並んでいたとしても、
失望しなくてもよい。
今、今から、聖書に興味を持とう。
旧約聖書に記された約束を学ぼう。
この預言を悟りたいと望もう。
そこから、キリストの与える霊的生命が芽生え始める、と書かれている。