ごきげんよう!さわこです。
今朝は3時前に目覚めました。
昨日の安息日学校聖書研究ガイド8月9日木曜日を一日遅れで読んでいました。
ゼベダイ子のヨハネの兄弟だったヤコブが、ヘロデの迫害により処刑された後のこと、ペトロもヤコブと同様に処刑されるべく牢に入れられます。教会では、ペトロの救出のために熱心な祈りがささげられていて、天使によって救い出されるのです。使徒12:1-19)
「ヤコブは神の目に正しくなかったから殺されたのであり、ペトロは正しかったので助けられた。ヤコブの時には教会全体で熱心に祈りがささげられていなかったので死刑にあった。ペトロの時には熱心な祈りがささげられたから、天使が救いに来た。」
まさか、誰も、このようなとんちんかんな答えを出したりはしないとは思います。
しかし、ヤコブもペトロと同じようにイエス様の忠実にお従いしたお弟子だった。
それなのに、どうして、聞かれる祈りと聞かれない祈りがあるのだろう。
旧約の預言者たちの死も、バプテスマのヨハネの死も、納得いくものではなかった。
どうしてこんな違いがおきるのだろう?
しかし、後になってペトロも捕えられて、死刑になってしまった。
ヤコブは神様のための働きが終わっていて、ペトロにはまだ残っていたからだろうか?
などと、憶測は憶測を呼び、疑問は尽きません。
テキストには、こう質問が書かれていました。
♦ヤコブは殺され、ペトロは解放され、ヘロデは神の裁きに遭いました。
正義が為される場合もあれば、そうでない場合もあります。
私たちはこのことから、私たちの疑問がすべて答えられるわけではないこと、
また、なぜ私たちは理解しがたいことに関して
信仰によって生きる必要があるのかということについて、何を学ぶべきですか。
この地球上の世界は、罪の入った世界です。
それゆえに、ヤコブは殺されペトロは解放されました。
この世では、正義がなされる場合もあればそうでない場合もあります。
それが、サタンが王である世界の現実です。
私たちはこの世の理不尽さから、何を学ぶべきなのでしょうか。
神様は、私たちが聖書を探り、学ぶべきことを見いだし、学ぶことを待っておられるのだと思います。
私は、このことから、私たちの疑問がすべて答えられる訳ではないこと、私たちには理解できないことがあることを思いました。
すべてのことが、自分の能力や体験で理解できるかのように思うことは傲慢であり、不遜であり、人間の思考には限界があるのだと分かりました。祈りへと導かれました。
祈ります。父よ。私の思考を手放します。
ただ、何があろうとも、どんなことが起きようとも、神よ、あなたは私の神、私の主です。
あなたはあなたを信じる者を見捨てないとの御約束にすがります。
イエスの十字架のお苦しみによって神の勝利は約束されました。最終的には祈りはきかれます。
しかし、私たちの日々は十字架と再臨の間にあるのですから、苦悩や悲しみ、理不尽さから逃れられません。
私たちにおきることはすべて大争闘の一つの場面なのです。
この地上人生でどのような死に方をしたかによって義とされるか否かではありません。
私たちの疑問がすべて答えられないということや、理解しがたいことがあるからということで、
神様への信頼が失せて良いものでしょうか。
イエス様はどんな時にも、父なる神を信頼なさいました。
そのイエスの信仰で私の信仰を被ってください。
マラナ・タ
今朝は、イエス様とのこうしたお交わりの時間をくださるために
神様は早起きさせてくださったのかもしれないと感謝をささげました。