ごきげんよう!さわこです。
梅雨入り間近になりました。
体調がすぐれません。
午後から、腹話術の定例会・・・休みたいなあ、と思いながら手帳を確認しました。
すると、何も書かれていない。記憶違いでした。
昨日、手帳を見て間違いなく今日だと思い込み、朝から気持ちが乗りませんでした。
重い気持ちのまま、昼食の下ごしらえ。
豚肉の代わりに乾燥グルテンを使っての酢豚。
白菜とツナのサラダ。大根の煮物。豆腐と白菜の味噌汁の卵とじ。
冷蔵庫の残り野菜が片付きました。
今日はお買い物はしないので、出費はゼロ。
「福祉募金」のお願いに、従姉妹の家を二軒まわって
そのあと、予約していた鍼の先生のところに行きました。
「疲れていますね~」と先生はひと言。
9時半から11時まで、治療をしてくださいました。
「ああ、顔色が良くなった、表情に元気が出てきたね」
夫と昼食の後、ちょこちょこと庭仕事。
去年のほうき草の種がこぼれて育ち始めていました。
この苗が大きく育ちますようにと祈りつつ。
今朝、デボーションが中途半端になっていました。
「今日の光」の読み物が、さらに気持ちを重くしたのでした。
それは文章を表面的にしか読めていなかったからです。
私の霊性が疲れ果てている証拠だと思いました。
午後、出かけないで済むと思うと、身体がほっと喜んでいるようです。
落ち着いて机に向かいました。
「今日の光」 5月29日のデボーション。
「神は、人の意志に逆らって、
サタンの策略の力からお救いならない。
自分の持つ人間の力をもって、
キリストの聖なる力に助けられて
いかなる犠牲をはらってでも抵抗し、
勝利するように努めなければならない。」EGホワイト
この文章に、私の心身はさらに疲弊し、いかなる意味であるのか、聖霊の導きを求めました。
神は人間をご自身に似せてお造りになった。
人間に自由意志を与え、選択能力を与えられた。
神様は人間をロボットとしては造られなかった。
自由意志を持って自ら進んで、神の愛に応答する者としてお造りになった。
選択の自由意志。
それにはなんというリスクが伴うことだろう。
人間よりもさらに優れたものとして造られた天使、
しかもその天使の長であるルシファーは自由意志を持って神に逆らった。
被造物が創造主を妬み、創造主を超えようとした。自ら神になろうとした。
三分の一の天使を味方につけて、天では戦いが起こった。
破れたルシファーはサタンとなって天から追放されたのだった。
そしてサタンはエデンの園で、エバを誘惑し、
エバに勧められてアダムも禁断の木の実を食べてしまいました。
エバは神の言葉よりも蛇の言葉に耳を傾けたのでした。
神への反逆の種が人間の心に込みました。
人類の父祖は、自由意志を、本来の使い方をしない方を選んでしまったのです。
それを「罪」と言います。
アダムとエバは、サタンの策略に抵抗しなかった。
神から目を離さなければ、神の御教えを心にしっかり留めておくならば、
サタンの誘惑には勝利できたはずだった。
神様は、その反逆の第一歩を、深い悲しみで御覧になっていらしたことだろう。
神は、人の意志に逆らって、
サタンの策略の力からお救いならない。EGホワイト
神は愛と義のお方です。
愛さえあれば、義を曲げてもいいのだろうか?
もしそうであれば、愛は不正となる。
神の愛が愛であるために、神ご自身が罪を贖ってくださらねばならなかった。
「罪の支払う報酬は死である」ローマ6:23
神ご自身が、人間の身代わりとして死んでくださらねばならなかった。
それは、創世記3:15に預言されている。
神が人間にお与えになった自由意志を尊重するとは、そういうリスクがあるということ。
人間が誤まった方法を選択するのを神は、苦しみを持って、見るしかできないのです。
人間が過ちを犯す前に、手を伸ばして救い出すことをなさらないのです。
「転ばぬ先の杖」として神は律法を与えてくださったけれど、
律法を守るか守らないかは人間の自由意志に任された。
人は、自由意志を如何に行使すべきだろうか。
キリストの聖なる力に助けられて
いかなる犠牲をはらってでも抵抗し、
勝利するように努めなければならない。EGホワイト
キリストの聖なる力に助けられることを受け入れなければならない。
サタンの誘惑に懸命に抵抗しなくてはならない。
罪に勝利しようと努め無くてはならない。
救いは恵み、自分の努力によらないとは、
自分の意志を、サタンに明け渡し、サタンの意のままになってよいということではない。
「何を守るよりも自分の心を守れ」箴言
人は人は自分の持つ力をもって、キリストの聖なる力に助けられて、
勝利するように努めなければならない。
人は自分自身の役割を果たさなければならない。
人はキリストから与えられる力と恵みを通して、
自分の責任において勝利者とならなければならない。」EGホワイト。(テキストを要約)
EGホワイトのこの言葉は、
信仰による義、恵みによる救いに反しているだろうか? 否!
救いは行いに拠らないとは、
サタンに抵抗すること、良き業に励むこと、神の戒めに喜んで従うこと
これらを否定するものではない。
今朝、私は
「・・・ならなければならない」を「・・・なることができる」と読み変えました。
「務めることができる。果たすことができる。努めることができる。
勝利者となることができる。すべて聖なるキリストの恵みによって」。
キリストの十字架による贖いの大いなる恵みのゆえに、
頑張らなくても意欲的になれる神の子とされた私だと思いました。
神様の愛は強制をなさらない。自主性を喜ばれる。
神様に創造して頂いた「意志」を自ら明け渡さない限り、
「意志」はサタンの策略に利用されるということを忘れてはならないと自戒を強めました。
マラナ・タ
聖書の解説書であるEGホワイトの言葉は、
表面的に読むならば、「べきである」「ねばならない」という断定的な表現に
ある者は反発し、ある者は厳しすぎると思い、
ある者は、行いによる救いで福音ではないと誤解をするかもしれない。
恵みによる救いとは、イエスを信じさえすれば、
自分の生き方を変えなくても、心を変えなくても、天国に行くことができるという安っぽいものではない。
イエスを信じることで、堕落した生き方から、卑しい心であることから、変えられる。
変わりたいと望みさえすれば。