ごきげんよう!さわこです。
聖書通読新約はガラテヤ書。
ガラテヤ書はクリスチャンの自由の憲章。
パウロは、キリストにある自由とは、律法と罪の支配からの自由、生ける神に仕える自由が現実であると宣言している。
最初の回心者はユダヤ人だった。
初代教会の指導者の多くはユダヤ人だった。
ガラテヤ書は、ユダヤ主義者を論破するために書かれた。
イエスをメシヤと信じた信仰者たちを純粋な福音に呼び戻すために書かれた。
救いは、キリスト・イエスを信じる事を通して神の恵みによって与えられる。
キリストを信じることは本当の自由を意味する。
自由とは、互いに愛し合い仕え合うこと。
互いに重荷を負い合い、互いに親切にしあうこと。
1章7節
「・・・あなた方をかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしている・・・」
ガラテヤのクリスチャンたちの多くは、ユダヤ人の律法や慣習をよく知らないギリシャ人だった。
彼らを困惑させ、福音を歪めた人たちは、割礼や食物規定などの旧約聖書の慣例が全ての信者に要求されていると信じる熱狂的なクリスチャンたちだった。
これらの教師たちは、異邦人クリスチャンをユダヤ人に変えることを望んだので「ユダヤ主義者」と呼ばれた。
パウロは彼らの教えは福音を捻じ曲げ変えてしまうと言ったが、ユダヤ教的な事柄をすべて拒絶していたわけではない。
パウロ自身、宮で礼拝し祝祭にも参加するユダヤ人だったが、福音の純粋な真理が否定されてはならない。
救いは、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても同様に、ただでイエス・キリストへの信仰のみによるのである。
真理をねじまげることは、全くのうそよりも見抜くことが難しい。
ユダヤ主義者たちは、キリストについて行く言いながら、十字架のイエスのわざは救いには十分でないと主張した。
福音を捻じ曲げる人々はいつの時代にもいる。
私たちは、真理が捻じ曲げられているかどうかをどのように見分けることができるだろうか。
ベレヤの人たちのようにそのとおりかどうか、毎日、聖書を調べる(使徒17:11)ことである。
そうするならば、神の御言葉に示された真理と調和しているかどうかがわかる。
御言葉はイエスご自身だから、そして聖書はイエスを証ししている書物だから。
日々、聖書に親しむところに、イエスの御霊である聖霊が働かれる。
パウロはコリント第二11:14において、サタンは光の天使を装おうと警告した。
パウロの言葉は過激であるが、それはガラテヤのクリスチャンたちが生死にかかわる重大な危険な問題の渦中にいたからである。
ユダヤ人であるためには、アブラハムの子孫でなければならなかった。
そして、ユダヤ人の律法と伝承を忠実に守った。
異邦人をみな異教徒と見なした。
そして異邦人との接触は霊的な堕落をもたらすと信じていた。
異邦人は、割礼を受け、ユダヤの律法と慣習に従うことによって、宗教においてユダヤ人になることができたが
完全には受け入れられなかった。
多くのユダヤ人は、神の教えがユダヤ人と異邦人の両方のためにあるということを理解するのに困難を覚えた。
異邦人はクリスチャンになるまえにユダヤ人にならなければならないと考えるユダヤ人もいた。
しかし、神はユダヤ人と異邦人の両方を救うことを計画された。
神は、旧約聖書の預言者たちを通してこの計画を明らかにされており(創世記12:3、イザヤ42:6、66:19)イエス・キリストを通してそれを成就させた。神はそのことを、パウロを通して異邦人に示しておられたのだった。
パウロの変えられた人生は、神が迫害者をクリスチャンに変えた証しであった。
わたしたちにはパウロほどの劇的な変化はないかもしれないが、
新しい人となった私たちは、あらゆる点で神をあがめるものであるべきである。
ガラテヤ2:16
「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」
2:21
「わたしは神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
行いによって、赦しを得ようとする人は、キリストの十字架上のわざを全く信頼していない。クリスチャンが変えられていくみわざを自分で行おうとし、救いの御業を行ってくださる方に頼ることをしない。
もし、私たちが善良であることによって救われることができるなら、キリストは死ぬ必要がなかった。
十字架は救いの唯一の道なのである。
旧約聖書の預言者たちは、神の救いの計画は律法を守ることによるのではないと認めていた。
神は私たちの努力によるのではなく、イエス・キリストよる救いの道を与えてくださった。
奉仕や立派な行為、惜しみなく施しを与えることなどを、信仰の代用品と考えないよう、注意しよう。