ごきげんよう!さわこです。
5月19日安息日の聖書通読はレビ記25―27章だった。
「もしイスラエルの民が服従するなら、その地で平穏に暮らせる。不服従なら災害が起こる」と、
聖書は繰り返しイスラエルの民に教えている。
では、私たちに災難が降りかかる時、故意に神に逆らった不服従の結果だろうか?
知らないで犯した罪の結果だろうか?
自然災害の結果だろうか?と考える。
因果応報? 原因と結果の法則?
うまくいったとき「行いがよかったからね」「日頃の心がけが良かったからね」そういう会話がごくごく自然にあちこちで語られる。よその国ではどうだろうか。
聖書通信講座を7カ月学んだあと、自分から進んで(聖霊の導きに従って)毎安息日、教会に通った。
10ヶ月後、牧師からの電話でバプテスマを勧められて即答した。
バプテスマを受ける決心を決めたとき、ふたつの理由があった。
一つは、聖書の神様に手を引いてもらったならこれからも生きていける確信を持ったこと。
今まで困難が尽きない理由は神に従って安息日を守って来なかったことにあったとわかったこと。
もう、これで困難から助け出せると安堵した。
信仰を持った当時は、教会には多くの働き人がいらした時代だったので、お役を与えられるということもなくお客様教会員的に扱ってもらった。家庭集会を持てみないかと勧められて迷うこともなく「はい」と応じたら、両親や近隣の友人、PTAつながりの方々が誘いに応じてくださり、牧師と二名のベテランの教会員が応援してくださった。
主人も週に一度リビングルームを開放することに異議を唱えず、前日には片付けに協力してくれた。
今、振り返ってみても見えない神の御手があったのだと思う。
このような調子で問題は解決していくに違いない。
そして、そのことを通して、私がキリスト信仰を持つことの証しとなり福音が伝えられるのだと期待が膨らんだ。
ところが違った。問題はさらに膨らみ、3年半後には安息日礼拝を守ることさえ出来ない状況になって行った。
そして“長期欠席者”としての時代は4年半続いた。
本当に神様に従うとはどういうことなのだろう。
旧約聖書からは“神に服従していないから困難が起きる”という原則が迫ってくるのだ。
その困難とはこの世での実際的な困難。
信仰を持って実際的な問題は解決するどころか、膨らむばかり。
原因は何だ? それは自分にあるに違いないと自分の原因探しを始めてしまった。
悔い改めが足りないと重箱の隅をつっつくように、自分の責任追及をするうちに自己憐憫のドツボにはまってしまった。
「私たちが出くわす全ての惨事を自分の責任と考えることも避けるべきである」とは、
レビ記26章18節についてのバイブルナビの脚注である。
ほっとする助言ではあるのだが、一時的な慰めに過ぎなくもある。
真面目な人は自分の側にも責任があったと考えてしまいがちである。
社会や時代のせい、環境や不運のせい、誰かのせいにするとしても、全く自分の側に責任がなかったのだろうか。
選択のミス、わずかの時間のずれ、いずれも自分の判断の結果やちょっとした失敗の結果でもあるのだから。
約束を守ろうという意志があったはずなのに、結果的に守れなかったということもある。
自分の心の弱さや、一瞬の心の揺らぎ、勘違い、不測の出来事、想定外のこと。
「あなたの責任だ」と責められたなら、「はい、そうです」としか言いようのないことだってある。
とにかく、人間は弱く、不完全なのだから。
レビ記26章には、神に従わず神の戒めを守らなかった民は、国々の間に散らされ、敵国に連れて行かれその地は荒れ果て、敵の前つまずき倒れ朽ち果てる、自分の咎のために敵の地で朽ち果てる、という警告が記されている。
その預言の通り、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされてイスラエル十支族は歴史の舞台から忽然と消えてしまった。
南ユダ王国も、バビロニア帝国に滅ぼされてバビロンに捕囚されてしまった。
神を知らないで従わなかった時代の罪を神は大目に見てくださったが、クリスチャンとなった今は、大目には見てもらえなくなったのかもしれない。
私の気づかぬ罪は何だ?
私の悔い改めは本物ではないと神は教えようとしておられるのだろうか?
旧約聖書のイスラエルの歴史を通して、神は彼らに悔い改めて立ち帰る機会を与えてくださったことが分かる。
神に対して不従順であることによって受けざるを得なくなった苦難を通して、神は預言者を起こして、自己吟味し深く反省をさせて悔い改めの恵みをお与えくださった。旧約はその繰り返しであった。
バイブルナビの注釈には、「神の目的は民を滅ぼすことではなく、彼らの成長を助けることだった。日々の経験や苦難は、私たちを成長させ続ける神の目的のためだとわからなければ、屈してしまうかもしれないほど激しいことがある。」と書かれている。
確かにそうだ。神がどのようなお方であるのかをしっかり理解していないなら、絶望して屈してしまう。
「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)
「わたしを見たのは神を見たのである」と言われたイエス・キリストなる神に出会わなかったなら、私は立ち上がれなかった。
エレミヤ29:11-12には「・・・それは災いではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなた方に聞こう」(新改訳)
災いの時「これは平安への序章である」と神への信頼を強めさせてくださいと祈ろう。
「そのように祈れ、もっと祈れ」という神の御声を心に握りしめよう。
私は四半世紀以上も前に、真夜中の台所のテーブルで学んだ聖書通信講座によって、御言葉で「言」である生ける神キリストに出会った。
長期欠席者の時代にも、かつてのように一人で聖書を開いて神の前に座した。
紙に書かれた文字である「御言葉」で掬い出されて、「言」で救われた私の荒れすさんだ心を神様の前に開いた。
順調な信仰生活を過ごしている(かのように見えた)人たちに打ち明けるのは耐えられなかったから、そんな私にとっては、長期欠席という状態はかえって恵まれていたのかもしれない。人間的な痛みが追加されることから守られたのかもしれない。
私の信仰は、聖霊様の助けによって、聖書に向き合うことで癒されて行った。
聖霊様はイエス様のもとに私を導くための家庭教師であり、個人授業を毎日してくださった。長期欠席の4年半、私はなんと守られ恵まれていたことだろう。
もうどうにもならない・・・私は壊れてしまう・・・深い絶望の淵に立った私にイエス様は語ってくださった。
「あなたの哀しみをわたしは知っている」
「あなたの重荷はわたしから離れて行かないための錨のようなものだとは考えられないか」
聖書に聞く時「言」であるイエスが答えてくださり、私の心の耳が確かにイエスの声を聴いた。
今も問題は解決しない。
「それでも、あなたはわたしを信じるか」とイエスは尋ねる。
「はい、主よ、信じます」と私は答える。
伝道講演会にお客様が一人も来なくても、数人しか来なくても・・・
私はそのようなことに心を騒がすことはしなくなった。
私は義務感や責任感で働くのではなく、御霊を求めて御霊に導かれて、その結果として義務を果たし責任を果たせますようにと祈って来た。
結果は、教会員の一致した祈りに神様はお答えくださった。
努力には必ず結果が伴うわけではないという悲しい経験をどれだけ繰り返してきたことだろう。
私の祈りはこの地上で必ず応えられるわけではないという辛い経験をどれだけ繰り返してきたことだろう。
その繰り返しによって、一喜一憂することから距離を置くようになったのかもしれない。
確かなことはイエスとの交わりが深められ、聖書からイエスの声を聞くことが増えてきたということ。
イエスのうちに生かされていることを日々体験しているということ。
そして、人は、私が哀しみと苦しみのうちに生きていることに気づいていない。
それらが現在進行形の私の祈りの答えなのだ。
マラナ・タ
19日の聖書通読箇所にとどまったままで、その後の三日間の通読が留まっています。