ごきげんよう!さわこです

 

安息日学校教課研究ガイド

2018年2期「終末時代への備え―イエスに会う準備をする―」

5月16日のタイトルは「十人のおとめ」

マタイ25:1-13のこの箇所は、印象深く、学ぶたびに新しい気づきを与えられます。

ガイドのテキストから引用、紹介します。

 

マタイ24章における再臨のしるしについての説教の後、イエスは次の25章で、再臨の備え方について話しておられます。

「十人のおとめ」のたとえ話です。

 

「おとめ」と呼ばれているのは、クリスチャンと称する人たちを現していることを示唆します。

彼女たちは、大争闘においてサタンの側にはいませんでした。

 

しかし、終わりの時に、彼女たちは全員、眠り込んでいたのです。

キリストは、再臨の準備ができるように目を覚ましていなさいと警告しておられました。

 

10人のおとめは全員がともし火を持ち、全員が花婿を迎えに出て行きました。

それは、彼女たちが主の到来を待ち望んでいたことを意味します。

遅れがあり、主の到来を信じていた者たちはみな、眠ってしまいました。

 

突然、真夜中に、彼女たちは起こされます。花婿がやってきたのです。

愚かなおとめたちは、準備が出来ておらず、びっくりしました。

何故でしょうか。

 

ある訳によれば「ランプが消えてしまったのです」(柳生訳)。

ギリシア語の原文に忠実な別の訳は「わたしたちのともし火は消えそうです」となっています。

炎はまだ、ちらちら瞬いていました。

彼女たちはわずかながら油を持っていましたが、キリストに会う備えをするには不十分でした。

 

では、何が問題だったのでしょうか。

このおとめたちは、キリストが戻って来られるのを待ってはいるものの、キリストとの表面的な体験しかないクリスチャンをあらわしています。

 

彼女たちは油をいくらか持っていて、人生の中で聖霊がいくらか働かれたのですが、それは炎がちらちら瞬く程度にすぎません。

多くを必要とするときも少しで満足していました。

 

「聖霊は、人が心の中に新しい性質の植え付けられるのを望んで、

同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。

ところが、思慮の浅い女によって代表されている人々は、表面的な働きに満足している。

彼らは神を知らない。彼らは、神の品性を学んでいない。神と交わっていない。

であるから、彼らはいかに神を信頼し、ながめ、生きるべきかを知らないのである。

彼らの神への奉仕は、形式化してしまう」 希望への光1348―1349ページ、キリストの実物教訓387ページ

 

マラナ・タ

この日の「十人のおとめ」の学びは、自己吟味させてくれます。覚醒させられます。

表面的な聖霊との交わりに満足していることに気づいているだろうか。

感傷的で情緒的なキリスト信仰に心地よさを感じて満足してはいないだろうか。

自分の愚かさを主張することで、謙遜な気分に浸っていないだろうか。

それを悔い改めの告白のように思っていないだろうか。

自己憐憫を悔い改めのように思っていないだろうか。

何はともあれ、御言葉(紙に書かれた文字)にかじりつき、御言(イエス)に出会え!

日々、生ける言(イエス)に会わないで、その日を真実に生きたと言えるだろうか。