続きです。

ごきげんよう!さわこです。

 

聖書通読、コリント第二 10章から。

10章12,13節には、「比較すること」について書かれている。

「・・・比較したりしようなどとは思いません。・・・比較したりしているのは、知恵のないことなのです」

パウロの言葉をバイブルナビは以下のようにまとめています。

・  偽教師たちは、自分を神の標準に照らすのではなく、自分を他者と比較して、自分の良さをアピールしようとした。

・     神の標準に照らして自分の力量を計る時、自分には思い上がる根拠のないことを知る。

・     他人の功績を気にしないようにしよう。

・     自分の功績を人に認めてもらおうとする心や、人からの賞賛を求めたいと思う心は、慢心を引き起こしかねない。

 

 

その昔、マルキシストの若者が、「グラスとコーヒーカップとの違いをどう見分けるか」と質問をした。その場にいた人たちは「・・・」。

その若者は「比較することだ、比較すればわかる」と言った。

「なるほど!そうか。その存在が何であるか、その価値がいかなるものであるのかは、比較しなくてはわからないのか。知恵のある人は違うもんだ」と感心して聞いていた私がいた。

 

やがて、母となった私は気づいた。

比較の必要性のないことに。比較することは、母親の心を荒廃させてしまうことに。

高慢になったり、ひがんだり、妬んだり、そして、競争心が湧き、そこには平安がないことに。

比較することの怖さは優劣ではかろうとする考えがついて来るところにある。

違いを知ることが目的であって、その違いに優劣をあえてつけることは必要なのだろうか。

比較することは、ありのままの今の状態の自分を冷静に見ることができなくなる。

高慢になるか、自虐的になるか。そこには妬みが生じる。自己受容出来なくなる。

他者と自分とを比較することで、心の奥に隠れていた罪が育っていく。

金子みすゞの詩を思い出しました。

 

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが
   飛べる小鳥は私のやうに、
   地面を速くは走れない。


   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のやうに
   たくさんな唄は知らないよ。


   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

 

そしてさらに歳月は流れて、

「比較したりしているのは、知恵のないことなのです」というパウロの言葉に、

天来の知恵だと受け取っている私がいます。

「みんなちがってみんないい」

詩人の心は神の世界に近いのだなあと感心している私がいます。

 

マラナ・タ

お昼寝が効いたのか、珍しく遅くまで起きてしまいました。

おやすみなさい。

明日、寝坊しませんように。