ごきげんよう!さわこです。

 

朝は、「今日の光」EGホワイトの読み物から。

タイトルは「イエスはしばしば誤解され孤独であった」

私たちも誤解される時がある。

全く異なる「測り縄」を持った人からの誤解であればやり過ごすことも出来る。

しかし、同じ材質の測り縄の長短ゆえの誤解は辛い。

今まで培ってきたはずの関係が崩れていくようでこの上なく苦しい。

「兄弟たちの短い測り縄ではイエスが果たすためにおいでになった使命を測ることができなかった」

とEGホワイトは書いているが、

私たちは、ともすれば、自分の短い測り縄で無自覚のままに裁きあっている事があるのだ。

測り縄は聖書の御言葉を基準にしているという自負があるのかもしれないが、

御言葉の表面的な字面だけをなぞっていることもある。

御言葉を御霊の導きに拠って読んでいるだろうか。

 

「自分のいる場所においてさえ誤解と疑惑に耐え忍ばねばならない時は、イエスも同じことに耐えられたのだと思うことによって慰められる。」宗教は良いものだ。生きるための自分の心のあり方の指針を与えてくれる。

しかし、生ける神キリスト不在の宗教の与える慰めは、一時しのぎの頓服やカットバンでしかない。

頓服やカットバンも有効だけれど永遠ではない。

 

今朝は、仕事で外出しました。

昼食後、家事を終えて、今朝、読めなかった通読をしました。

サムエル記上 25:36より。

 

聖書の中には模範としたい女性が何人も登場する。

ナバルの妻アビガイルもその1人だ。

彼女のような識別力ある賢さを神様に願い求めたい。

難しい問題について話し合う時にはタイミングが重要である。

扱いにくい話題を持ち出す時には、いちばん良い時がわかるように神に知恵を求めなくてはならない。

彼女のような妻を持った夫はなんという幸いな者だろうか。

ところがナバルは妻の賢さ有能さに気づかなかった。

ダビデは彼女の助言を無視しなかった。

ナバルとダビデの違いである。

アビガイルもまたダビデのようにいつも主を仰ぐ祈りの人であったにちがいない。

 

マラナ・タ

今から、また夕方の仕事で外出します。

新約の通読は帰宅してからね。