ごきげんよう!さわこです。

 

聖書通読、サムエル記上21:6

「そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。

そこには、その日、あたたかいパンと置き換えられて、

主の前から取り下げられた備えのパンしかなかったからである。」

 

ダビデはサウルに命を狙われて、サウルの息子でありダビデの親友であるヨナタンに別れを告げて逃亡します。

その途中、ノブの地で祭司のアヒメレクからパンと剣をもらいます。

こここの聖句について、バイブルナビから、聖所の備えのパンについての説明を引用します。

 

「週一度の安息日に祭司が幕屋の聖所に入り、焼き立ての12個のパンを小さな机に起く。

このパンは臨在のパンと呼ばれ、神が民の間に住まわれるだけでなく、

ご愛をもって民の物質的な必要を満たしてくれることを表わしている。

取り代えられた後のパンは、奉仕に当たっている祭司だけが食べる物であった。」

 

宗教的儀礼(律法)では、この臨在のパンは祭司だけが食べることが許されていました。

祭司アヒメレクは、律法に背いてダビデに与えたのでしたが、これはより大切な愛の律法を守る行為でした。

レビ記19:18「・・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。

 

何世紀も後、イエス様はこの出来事に触れ、神の律法があわれみとともに適用されるべきことを示された。

マタイ12:1-8、ルカ6:1-5

・・・ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。

ファリサイ派の人々は、『弟子たちは安息日にしてはならないことをしている』と言った時、

イエス様は「ダビデも自分と伴のものが空腹だった時、神の家に入り、祭司しか食べてはならない備えのパンを食べた・・・

・・・「神が求めているものは、いけにえ(神殿や律法)ではなく憐れみ(愛の行為)である」と言われて、咎めるファリサイ派の人々にお話になったのでした。

イエス様の時代、律法の専門家であったファリサイ派の人々や祭司、律法学者といった聖書(律法)の専門家たちは、律法の本質が分からなくなっていました。

 

マラナ・タ

イエス様は、聖書はご自身について証ししていると仰いました。

聖書はモーセをはじめとする預言者たちによって記された本ですが、

本当の著者は神(父・子・聖霊の三位一体の神)であるのです。

聖書にある神の真理を、聖書に詳しいはずのユダヤ社会の指導者たちは誤解していました。

今の時代も同様なことが起きています。

へりくだった心で、み言葉の真実の意味をイエス様から日々教えて頂かなくてはなりません。