ごきげんよう!さわこです。
ヨブが、13章―16章で、天におられる公正な弁護者に望みをかけたからと言って、たちまち元気を取り戻した…
なんていうわけにはいきません。
試練の重さに、打ちひしがれている人に、信仰の足りなさを指摘して「体にいいから」と玄米食を強要するのに似ています。
体力が落ち消化力が落ちている時にはおもゆから、続いておかゆから。順々に回復に合わせます。
(中には回復しているにもかかわらず、おかゆしか食べられない状態だと自己診断して、もしかして病人生活に留まりたいのか?この甘ったれ奴、と言うケースも?)
ヨブ記は42章までありますから、ヨブと友人たちの激論はまだまだ続くのです。
でも読者は知っています。ヨブの苦難は友人たちの批判・非難に当たらないということを。
何故なら、その苦難はサタンから来ていることが1章6節から2章6節までに記されているからです。
1:12「主はサタンに仰せられた『では、彼のすべての持ち物をお前の手にまかせよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』そこで、サタンは主の前から出て行った」
2:6「主はサタンに仰せられた。『では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな』」
17章10節に、「ヨブは友人たちの中に知恵を見出さなかった」と書かれているにもかかわらず、
読者の中には「因果応報論」から抜け出せていない者もいます。
部分的には友人たちの神観が適合する場合もあるからです。
ヨブ記の次にある詩編の1章全章(1-6節)
「いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず 傲慢なものと共に座らず
主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人(中略)
その人のすることはすべて繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。(中略)・・・
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る」
ここを、聖書全体から考証しないで字義通りに理解するならば、しかもその理解が皮相的表面的であるならば、まさに因果応報論と重なります。ヨブの友人たちは、その論点からしか語りません。そしてその考えは肉には真理であるかのように響くのです。
「神様は信じて祈る者の祈りはすべて答えられるということを体験しました、と言って物的不足が満たされたこと、自分の願い通りにかなえられた、神様はお約束を守る素晴らしいお方です。聖書の神様を信じましょう」
という証とお勧めを聞いてその場から出て行きたくなったと聞いたことがあります。
自慢話としか聞こえない、傷口に塩を塗られるような話ではないのかと。
しかし、人生の試練を未だ体験していない子どもたちにとっては励みとなり心を正すチャンスとなるかもしれません。
肉なる心から脱しきれていないから、友人たちの論法に惑わされてしまうのではないでしょうか。
少なくとも、信仰を持ったばかりの私にとっては惑わしであり、読みながら混乱したのでした。
他者の意見に従わないことは、傲慢だと言うわけではないのですが、反論すると高慢傲慢のレッテルを貼られはしないかと、
議論するのは謙遜さの欠如だとお叱りを受けるのは避けたいという護身的思いも出てきます。
愛するとは、自己を無とすること。
それは自分の考えを言わないで黙ることであるかのように思う。
「あなたは我が強くて、自分を抑えられない、引くことを知らない」
こういう論法で年長者や賢明な人に諭されると、即座に謝ってしまうこともあります。
そういう心の構造、思考回路もありますから、ヨブのような粘り強さが欠如するわけです。
その結果、自分は悔い改めていない。
悔い改めが足りない。
自分は罪びとのままだ。
罪を犯し続けているから困難が続くのだ、というスパイラルにはまってしまうのです。
さて、17章から、このような結論に導かれます。
・ ヨブの友人たちは知恵に関して間違った見方をしていた。
・ ヨブの友人たちは、地上での(世的な)繁栄と成功は、神への信仰に対する報酬だと捉えていた。
・ 地上での困難と苦悩は信仰のなさの証明であると考えていた。
・ ヨブは、真に賢い者は、知恵が人間の成功や失敗から来るのではなく、神から来ることを知っていた。
・ 私たちは、ヨブの友人たちのようなこの世の視点から人生を評価すべきではない。
ずーと昔のこと、まだ、母が健在だった時の会話を思い出しました。
ある人のことが話題になりました。母は、
「あのような人はきっと蒲団の上では死ねないと思うわ」
ある人とは略奪婚をして後、順風満帆な人生を歩んでいました。子どもたちは優秀に育ち、事業も繁栄して夫婦仲も良かったのでした
私は
「あの方は、きっと深い悔い改めが出来て神様からお赦しをいただけたので、詩編の1章で書かれているように、すべてのことで繁栄を頂いたのかもしれない・・・。私はクリスチャンだけれど悔い改めが不十分だから、神様が目を覚ましなさいと試練を与えているのだわ・・・あの人はクリスチャンではないけれど・・・それは私たちが知らないだけで、どこかの教会でクリスチャン人生を歩んでいるのかもしれない。だから、反省して生き方が変わったので、この世においても報いを受けているのかもしれない」
母はあきれた顔で私を眺めました。
その頃の私は、神様の祝福をこの世においても必ず「世的繁栄」で受けられるという思想から脱出できていなかったのだと思います。
私の苦労を知っている母は「かわいそうに・・・」と思ってくれたのでしょうね・・・
成人してからの母との時間は、優しい時間でした。
小学生の頃は厳しい人だと思っていたのですけれど。
マラナ・タ
ヨブ記を読み返すたびに、聖書全体を理解しなくては、人はなかなか因果応報論の世界から脱出できないなあ・・・と思います。