ごきげんよう!さわこです。

私のデボーション日記から

 

今日の光 5月4日「イエスは勤勉であられた」

勤勉と信仰の関係についての朝のデボーション。 

 

勤勉であること、努力すること、それを行いの義であるかのように思わせようとする存在がある。

御言葉を学ぶことを神に頼らないで自分の力でしようとしているかのように思わせようとする存在がある。

何もしなくていい、主イエスを信じてゆだねたらいい、それこそが信仰、とささやく声がある。

このささやきは私の怠惰を承認してくれるようで快い。

 

ところが、聖書を誤読させないように記された信仰の本には 

「キリストは人性と神性が協力しなければならないという事実を神様の働きの中で現そうとなさいました」

「神のすべての約束には一つの条件があります。」とある。

 

「無条件の愛ではなかったの?人間は無力だから何もできないから、何もしなくていいのじゃなかったの?キリスト教は信じさえしたら自分は何もしなくていいって、教えてくれたはずなのにまるで詐欺じゃないの?」  

 

一つの条件とは何?

「私たちが信仰を持って反応する服従です。神の御言葉に従うことは、絶えず神様との生きた関係を意味します。栄養を補給してもらうことを意味します。」と書かれています。

 信仰は漸進的に成長していきます。神様は成長へと導きます。

人間の側がそれを拒むなら、サタンは見逃しません。

怠惰こそ純粋な信仰のように錯覚させます。

さあ、私よ、私。目を覚まして絶えず祈りなさいとの御言葉に従おう。

怠惰に流れることのないように助けてくださいと祈ろう。

 

今日の光 5月6日のデボーション。

「もし・・・目が開かれていたなら・・・見たことであろう」 

神に属することは、開かれた目にしか見えないのだ。

自分の目で見たことしか信じないと断言する人がいる。

偽情報に惑わされない利点はあるが、サタンに幻影を見せられたら信じてしまうだろうか。

それも危険だと思う。 

 

 「キリストと共に復活した人は・・・」

この文章については、最終的な復活だけではなく、キリストを信じた者はその時点で古い自己に死に、

新しく再創造されるから、そういう意味での復活と私は理解した。 

 

「・・・神に選ばれた者、聖なる者、神に愛された者として認められている」のだから、心の謙遜を表わす特徴を頂けるはずだ。

 

「彼らは義の衣を着るべきである」

  EGホワイトはここでも 「べきである」 と命令口調である。

私はこう読む。

「本来、義の衣を着ているはずのあなたが着ていないとはどういうことだ?わたしはあなたに義の衣を着せたではないのか?あなたはそれを着るべきではないのか?」 

 

ここに神の深い悲しみ(=怒り)が現れている。

あなたは滅んでしまっていいのか?と。 

私たちを造ってくださったお方は、ご自分に似せて造られたのです。

そのお方のご性質に真実に似た者でありたいと思わないか?

そのためにキリストは地上人生を歩まれ十字架にお架かりくださったのではなかったのか?

 

「もし、私たちがこの世でキリストに従った生き方をするなら、神の性質にあずかる者である」 

まことに、まことにそうです!

 

主よ、キリスト様に似た者でありたいと切に願う者の一人に加えてください。

そして、「クリスチャン」と呼ばれるにふさわしい者としてください。

 

マラナ・タ

私の教会でのマラナ・タ18「キボウのトビラ」初日です。

午前の部に行ってきました。約40人の出席。

一度帰宅して、午後6時半からの第2回目を聞きにまた出かけます。

それまで、休憩。