ごきげんよう!さわこです。
昨日の安息日礼拝ノートを眺めながら、デボーションにあずかりました。
今朝の私の個人礼拝です。
説教から。 青字は、ノートに書きつけたメモ。
黒字は、私の気づき。
教会に、個人的生活の中に祈りを響かせよう。
祈りは神との素晴らしいコミュニケーションなのだから。
神の御心とは、神の望んでおられること。
神ご自身が、私のために祈っておられるなら、私は祈らずにいられようか。
イエスは、この地上で人として生きるために、必死で祈っておられた。
神であるからこそ祈られた。
祈りは魂の呼吸である。
呼吸停止すると、4分で50%の人が、5分で75%の人が、8分で大脳復活不可能。となる。
では、あるクリスチャンが、8分間神に無関心でいたなら、そのクリスチャン人生は復活不可能なのだろうか。
神は「悔い改め」という恵みを差し出してくださっている。
自分の地上人生が終わりを迎えてからでは遅いのです。
死者は何も知らない、考えることも、反省することもしたくても出来ない。
死者は、祈ることも、神の御名を呼ぶこともできない。
生きている家族が代わってしてあげられることではないのです。
生きている者が、イエスの御名によって死者のために祈ったから、死者が天国にあげられるのではないのです。
生きている人は、ご再臨までの恩恵期間のうちに、神に立ち帰ろう。
イエスを知らないままに死んだ人のことについては、
神が人の心に刻み付けてくださった良心という律法に従って、神の御心である愛に生きたかどうかを、
神がご存知であるから、現在、生きている人間が、気をもむことはないのです。
神の領域に踏み込んで、悩むこと心配すること、お金を積み上げて解決しようなどとあれこれしなくていいのです。
私が、ご再臨までに、死んでいるか生きているかはわからない。
いつ死んでも悔いの残らない神様との関係づくりをしていたいと願います。
マラナ・タ
生きるとは、神様と私のコミュニケーションを吟味すること。