ごきげんよう!さわこです。 

 

主イエスは、ご自分の恵み深い賜物に感謝する者たちのそば近くにおられます。

祝福とは、神から注がれる慈しみと慰め、つまり愛。

それを感謝して受け止め、表現する時、祝福は大きな喜びとなります。(今日の光 4月25日より)

 

私たちは、現世的祝福をいつも求めて祈ります。

しかし、神様の祝福は、それにはとどまりません。

神様は、私たちを、霊的祝福を受けるようにと引き上げてくださいます。

 

自分の内には何もないということが分かった時に、初めて私たちは神に祈り求めるようになります。

恥じらうことなく、しつこく求め続ける者に、天の父は聖霊を与えてくださるとキリストは言われました。(ルカ11:5-6)

 

霊的祝福をお与えくださるために、

現世的祝福をお与えにならないこともあるかもしれません。

 

そこで、神様は、忍耐を学ばせくださるという祝福をお与えくださるのかもしれません。

そこで、悲しみの人であるようにと、招いてくださるのかもしれません。

そして、それは、痛む人、悲しむ人に出会った時のために寄り添う者とならせていただくための

訓練をさせてくださっているのかもしれません。

 

 「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。

わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」詩編119編71節 

 

あなたの掟とはなんでしょうか。十戒でしょうか。イエス様は十戒を二つに要約なさいました。

「神を愛し、自分を愛するように人を愛しなさい。」

 

卑しめられる時、神様から頂く祝福があります。

それはへりくだりを学べるからです。

イエス様にある謙遜を教えて頂けるからです。

自我を砕いていただけるからです。

そうして、初めて私たちは、無我の境地、私心のない境地で

愛することができるようになるのでしょうか。

 

もし、私が神の恵みの御座から流れ出る流れによって、

日々、養われていないなら、ほんもののクリスチャンになれるでしょうか。

 

神様は創造の第六日目に、ご自分に似せて、人を創造なさいました。

サタンの誘惑によって、神様と人の間には、深い淵が出来てしまいました。

神様と人の距離が遠く離れてしまいました。

しかし、神様は、御子をお降しになって、御子を信じる者は、神様のもとに立ち帰ることができるように計画してくださいました。

クリスチャンとは、そのことを信じて生きる人のことです。

 

そしてその人をキリスト様に似た人に変えてくださいます。

それこそが神様からの祝福ではないでしょうか。

 

神様からの一番の祝福は、私をキリストさまの似姿に変えることではないでしょうか。

 

わたしは、まだまだ不完全なままですが、

イエスを我が主、我がキリストと受け止めた時から、不完全の完全を生きられるようになります。

 

 イエス・キリストの十字架の救いと、復活、昇天、再臨を信じ、イエス様こそ、私の神であり、イエス様は私のために十字架にお架かりくださったという御約束を信じなくても、親切な人はいます。

約束を守る誠実な人はいます。優しい人はいます。礼儀正しい人はいます。

仏教徒の中にも、神道を信じる人の中にも、イスラム教やヒンズー教、その他の新興宗教を信じる人の中にも、無神論だという人の中にもいます。

 

親切で、優しく、礼儀正しい人は、クリスチャン以外にもたくさんいます。

道徳的な人、高潔な人格者は、クリスチャン以外にもたくさんいます。

この世での祝福、健康、富、名誉、平和な家庭、人からの尊敬、こういった祝福を受けている人は、

クリスチャン以外にもたくさんいます。それは事実です。

私たちはそういう人徳のある人を何人も知っているのではありませんか。

 

では、そういう人格者とクリスチャンの違いは何でしょうか。

譬えるならば、花瓶の中に活けられた切り花と、豊かな大地に植えられている花の違いでしょうか。

根っこの有無の違いではないでしょうか。

 

砂の上に建てた家と、岩の上に建てた家の違いではないでしょうか。

イエス様は「わたしの言葉を聞いて行う者を岩の上に建てた賢い人に似ている」

仰いました。

「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」

と仰いました。(マタイ7:24-27)

 

クリスチャンであっても聞いて行う人と聞くだけで行わない人がいるということでしょうか。

名ばかりのクリスチャンではなく、名実ともにクリスチャンでありたいと願います。

 

「わたし向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。

わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)

 

御心を行うとはどういうことをいうのでしょうか。

「かの日には、大勢の者がわたしに『主よ、主よ、わたしは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇蹟をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れされ』」(マタイ7:22-23)

 

預言すること、悪霊を追い出すこと、奇蹟を行うこと。

それらを自分の力ではなく、御名によって為されたにもかかわらず、御心を行っていないというのです。

しかも、御心を行わない者は、つまり、不法を働く者であるとイエス様は仰っているのです。

 

御名によって「預言し、悪霊を追い出し、奇蹟を行っても」、御心を行わないと、言うのはなぜでしょうか。

「神を愛し、人を愛し、自分を愛する」愛の欠如をいうのでしょうか。

 

利他の心ではなく、無私の心でもなく、利己的な心、自分の名誉や有名になりたい心や、

自分の利益のために、預言し、悪霊を追い出し、奇蹟を行う、と言うことでしょうか。

「無私の愛」がそこにないということを、神様は御心を行わないで不法を働くと言われているということになります。

 

マラナ・タ

「祝福がありますように」「御心がなりますように」

これらをお祈りの言葉として私たちは用いることが多いと思います。

祝福も御心も、祈る自分がどこまでわかって用いている祈りの言葉であろうか、

と「今日の光」の4月25日を読んで、考えたのでした。