ごきげんよう!さわこです。
聖書通読 士師記13-17章より
サムソンはダン族。父はマノア、母は不妊の女であった。
ある時、御使いが現れて男の子を生むと告げます。マノアは主の使いに尋ねます。
「お名前は何とおっしゃるのですか」
御使いは答えます。
「・・・私の名は不思議と言います・・・」
生まれてくる子どもは、神のためにペリシテ人からイスラエルを救うという大きな働きをすることになっていました。
マノアの妻は主の使いの言葉に従います。
ぶどう酒も強い酒も飲まず、汚れたものは一切食べない。
サムソンと名付けられたその子は大きくなり神は彼を祝福されました。
神の霊は、さばきつかさとしての役割のためにサムソンの心をかきたて整え始めます。
ところがサムソンは、神から与え、神様はこのような男を士師とされたのかと、気をもみます。
腹立ちます。神様の心がわかりません。
しかし、よい環境に生まれながら、粗野に育ち、道を踏み外す若者たちのいる事を知っています。
家庭のせいだと批判できないケースも知っています。
“せんだんは双葉よりかんばし”の場合もありますが、逆のケースも多いのです。
子供時代“おりこうさん”でなければ、人間失格者だと決まっているならば、
7歳までで人間の価値が決められてしまうことになります。何と恐ろしいことでしょう。
サムソンのような我が子に心を痛めている親御さんが世の中にはいらっしゃいます。
あの、けた外れに人格が破綻したかのように思えたサムソンを神様は最後まで見捨てなかった。
それでも神様の計画のために用いてくださった。
サムソンの人生も性質も素行も、神の子としての品性を全く備えていない人物だったのに、
神の国の前進のために神様は用いられた。
“良い子ちゃん”以外は破門!ではなく、神様の愛は破格です。
ハチャメチャに生きたサムソンを神様は用いられた。
そこに、自分の人生に自信が持てず、劣等感の塊の自尊感情の低い者にとっては、希望につながるのです。
知性も、自制心も、機能しないそんなサムソンを神様は愛されご自身の栄光のために用いられたとは!
私も生きる価値がある。生きていていいのだ。神様はダメなままの私を用いてくださるのだ。
そんな希望がじわじわと湧いて来るではありませんか!
それでも、神様はサムエルをさばつかさとして召された。
でも、私は特別に召し出されていない。
サムエルは、やっぱり特別に愛された特別の例外的ラッキーボーイに過ぎないんじゃないのかなあ・・・という思いもよぎります。
私たちは、さばきつかさではありません。
クリスチャンとして、牧師、宣教師、伝道師というように特別の召命を受けてはいないかもしれません
だからといって、神様に用いられない存在、不要な存在であるかのように早とちりしてはなりません。
神様は、私たちを様々な手段を用いて成長させ備えるために、あらゆる手段を用いられます。
遺伝的特性、環境的影響。個人的経験。
バイブルナビには
「あなたの過去はあなたの想像以上に役に立っているかもしない。
サムソンの物語が教えてくれるのは、やり直すのに、遅すぎることは、決してないということである。
過去において、どれほどひどい過ちを犯したとしても、
今日、私たちが神を完全に信頼するのに、遅すぎるということはない。」
とあります。
神様が備えてくださった任務に、
聖霊の導きに拠って敏感に反応できるようでありたいと願います。
マラナ・タ
「神を完全に信頼するのに、遅すぎるということはない」
士師記のサムソンの物語から、学んだことの結論です。