ごきげんよう!さわこです。
今日は、JRに乗っておでかけ。
私は、発車時刻が分かっている乗り物には、ぎりぎりに到着するのは苦手。
20分くらい前には着いていたい。ホームのベンチで本を読みながら待つのです。
今朝の聖書通読で読み残した箇所、新約聖書コリント第一8章を読みました。
「・・・知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」 コリント第一8:1-3
私は知識も足りない、愛も足りない。
つまり、私は、無知で徳が無い。
私は、まだ知らなければならないことも知らないのです。
私が神を愛しているのは事実ですが、その愛の程度についてはすごく大きいのだとは自信を持って言うことができないのです。
しかし、神様が私を愛してくださっていて、私が神に知られていることについては一片の疑いもありません。
8:6「・・・父なる唯一の神がおられ・・・すべてのものはこの神から出ており・・・すべてのものは、唯一の主なるイエス・キリストによって存在するのです」
私は、今では、このことを完全に信じているのですが、かつてはどうであったか、というと、わたしの場合は“父なる神”の存在は信じていても、同じ唯一の神が、御子なる神、聖霊なる神、父なる神。このように、神のご性質を三つの性格( character personality)で呼ぶ方法に戸惑ったのですが、イエスは、神を父と呼び、イエスご自身も神であり、聖霊もまた神であるので、次第に三位一体という表現に納得するしかくなって行きました。
例えば、水蒸気も、雪も、雨も、水であるように。黄身・白身・殻で卵となるように。人間の理解を超えた神様の御性格を、如何に表現するかで考えに考え、祈りに祈った結果の ”三位一体“でありましょうか。
8:7「しかし、すべての人にこの知識があるのではありません・・・」
そうなのです。神のことは、神に拠らなければ理解できないのです。
神に拠らなければ信じることができないのです。
神の知識のない人を弱い人だと、パウロは書いています。
「キリストはそのような弱い人のためにも死んでくださったのです」から、
弱い人の「弱い良心を踏みにじる時、キリストに対して罪を犯している」ことになるのです。
キリスト様は、常に弱い者の気持ちを慮ってくださいます。
ですから、分からないことは、「神様、分かりませんから教えてください」と心を低くしてお願いしたらいいのです。わかったふりをしたり、わかったつもりになったりしないで、人間の理屈をこねくり回さなくてもいいのです。
弱い者は、心を低くするへりくだりの心で居たらよいのです。
しかし、意外にそれが難しい。真の謙遜は神さまから頂くものなのです。
自力で身につけようとするならば、我力の世界となってしまう。演技の世界になってしまいます。
マラナ・タ
神様、あなたの知識をこれからも私に教えてください。
無意識の領域で、弱い人につまずきを与えてしまうことがありませんように。
もし、今日、私がそういうことをしてしまっていたなら、神様お許しください。
同じ過ちを繰り返すことがないように助けてください。