ごきげんよう!さわこです。

昨日の聖書通読箇所は出エジプト記13:17-17:16

 

出エジプト記15章22節から27節を要約するとこのようなことが書かれています。

モーセに率いられたイスラエの民たちは葦の海を通り、シェルの荒野を三日間歩き、マラに来たがマラの水は苦くて飲むことができなかった。民はモーセに「何を飲んだらよいのか」つぶやいた。モーセが主に叫ぶと、主は一本の木を示されたので、モーセはそれを』水に投げ入れた。すると水は甘くなった。やがて、彼らはエリムに着いた。そこには12の泉と70本のなつめやしの木があった。そこで彼らはその水のほとりに宿営した。

 

 

私の好きな聖書の箇所の一つです。二年ほど前になるでしょうか。

祈祷会のメンバーでコーテットで讃美にチャレンジしてみようという思いを神様が起こしてくださいました。牧師夫人の伴奏で牧師と信徒二人。牧師夫人はピアノを弾きながらアルトを担当。牧師はベース、Mさんがテノール、私がソプラノ。そのユニットに何という名前を付けようか?祈祷会が木曜日だから「木曜会」としてみましたが、教会員からの評判の良くないこと良くないこと(笑)

そこで、私は「エリム」を提案しました。

 

ちょうど出エジプト記の15章を読んでいて、苦い水を湧き出すマラの地は、私たちの人生の試練の地を象徴しているように思えたのです。そこで、マラの泉に一本の木を投げ入れたら水が甘くなった。「この木はイエス様の象徴だ!」と気づかされたのは何年前のことでしょうか?聖書通読をするたびに、聖霊様が大切な気づきをくださいます。

 

通読の時のさまざまな気づきをうれしさのあまりついつい話してしまうことがあります。

ブログにも書いてしまうのですが・・・

 

ある人は「あなたがそう思っているだけでしょう」と冷静に言われますので、口外することに恐れるようになっていましたが

「この一本の木はイエス様です」

とその後に、礼拝説教で語られて安堵したのでした。

「よかった!私の勝手な解釈でなかった」

以来、マラの苦い水の箇所は私にとって大切になりました。

 

それから数年後の通読の時に、マラから7マイルほど離れた地に『エリム』というオアシスがあることに注目させていただいたのです。

「マラ」という苦難の場所での試練の時は、近くに「エリム」が必ずある!

「恐れるな。安心しなさい。苦難・試練は平安への序章だ」

イエス様がそう励ましてくださったのでした。

 

「木曜会あらためエリムはどうでしょうか?」

との提案に牧師夫妻もMさんも賛成してくださいました。

 

さて、バプテスマを受けるか否かで悩みの中にあったEさんが

「特別讃美歌に感謝しました。エリムってどういう意味ですか?」と尋ねてこられました。

私はエリムの意味を説明しながら

「このコーテットは教会祈祷会のメンバーで結成したコーテットなの。いかがですか?アルトのパートが入ってくださると助かるのよ」。

すると、祈祷会の日にEさんが来られたではありませんか!

「私はまだまだ知らない讃美歌が多いですから、初めからアルトの旋律を覚えるのは大変ではないと思うの。これから祈祷会に出席します」

 

次の週の祈祷会は大雨でした。するとEさんから電話が・・・

「さわこさん、こんな雨の日に自転車で出るのは危ないですから、ちょっとだけ回り道をしたらさわこさんのお宅の前の道に出ますから、お迎えにあがりましょう」

私は大喜びでご厚意に与りました。

 

その時以来、晴れの日にもEさんは私を祈祷会に送迎してくれるようになったのです。

車中で語りあう信仰の会話は互いの心に浸みて行きました。

Eさんがバプテスマに迷っている理由は、私が少女時代にキリスト教を嫌った理由と重なっていることに気づいたのです。

キリスト教の宣教の方法が世界をキリストの恵みで覆うということだけでなく、キリスト教列強諸国家の政治的思惑も背後にあり、歴史好きだったEさんや私はそこに引っかかりつまずいてキリスト教に反発した時代を持っていたのです。

キリスト教国家がキリスト様そのものを誤解させ覆い隠していたのでした。

 

神様はエリムというコーテットと祈祷会を通してEさんの気持ちをほぐしてくださろうとなされたと思いました。

数か月後、Eさんはバプテスマにあずかりました。

その当時の牧師夫妻は異動なさって海外に行かれましたが、次に来られた牧師がベースを担当してくださり教会の音楽係さんが奏楽をしてくださっています。

 

マラナ・タ

「キリスト教国家がキリスト様そのものを誤解させ覆い隠す」

このようなことを、先に召し出された私たちクリスチャンもしてしまうことはないでしょうか。

聖霊様の導きでない、自力による情熱や熱心が、キリスト様とその人の間に立ちはだかってしまうことはないのでしょうか。

神様の御命令に従っているつもり、霊的な識別力のなさのゆえにつまずきとなってしまうことなど・・・「神様、私の心を清め、あなたの聖霊で満たして、神様の御心に全的に服従できるものと、私たちを育て、主に贖われたものとしてください」と今朝は悔い改めを求める祈りをお捧げしいました。