ごきげんよう!さわこです
数日前のこと、「正しい者はいない。一人もいない。・・・なんじゃ、こりゃあ」
と娘が笑いながらトイレから出て来た。
夫も、「そうだ、そうだ、変なことを書いてある」と賛成の意を表明。
「確かに、変だと思うでしょうね。ここ1行だけを読むならば。
聖書は、その前後を読み、その章全体を読まなくちゃ、理解できない言葉があるの」
と私は弁護した。
「誰が、変だと思ったからと言って、そんな七面倒くさいことをすると思うの?」
と娘から反論。
キリスト教書店で毎年購入する聖句日めくりカレンダー。
母が健在だったころは、母の分も購入して年末には届けたものだった。
母は、娘や夫のようなことは言わないで、理解しがたい所は聖書で調べていたし、私に聞いてきて、信仰の話で盛り上がったものだった。
家族伝道の一端にでもなればと思って、トイレに日めくりカレンダーを吊るすようになって15年以上は経つように思う。
夫と娘は、こんなふうに時々、笑ったり、茶化したりしながら話題にしてくれる。
このカレンダーの聖句を選ぶ人はキリスト信者を対象としているのだろうが、私のように家族伝道に用いる人も多いのではないか。
この日、日本の各地で「なんじゃ、こりゃ」という未信者のあきれた声がこだましたことだろう。
ちなみにローマ3章の9節から12節を書いてみます。
「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。すでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてある通りです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者はなく、神を探し求める者もいない。
皆まよい、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。
ただの一人もいない。・・・」
これでは、分からない。さらに読み進めるとなおのことわからないだろう。
ローマ人への手紙は、キリストを信じて、聖霊の導きを求めて読んでもなおかつ難解。
初心者や未信者に説明するのはなかなか骨が折れる。
キリスト教の神髄をつかみたいという熱心さを持って祈る人でなければ歯が立たないのかもしれない。
「人間はみな罪びとです」が前提となって書かれている箇所であるから、信者と未信者とでは罪の認識が先ず違うのだから難しい。
創世記から始まる私の話を根気よく聞いてくれるのは期待できないばかりか、怒り出してしまうことは当たり前。
しかし「正しい者はひとりもいない」と聖書は言っている、というショック療法は記憶の底に残るだろう。
つまり、種がまかれたということだ。
後は、光と水と肥料とを適切に注ぎ続けること。先に召し出された者への使命でもある。
マラナ・タ
ずいぶんと前のことであるが、詩編23編を文語訳で覚えようと」数か月間、トイレに貼ってあったことがあった。
ある日のこと、夫が、
「浅井、朝倉の首を取って、その頭蓋骨に金でコーティングして杯として正月に家臣に酒を注いで飲むようにと言った信長は聖書を読んでいたのだろうか」
「そりゃ、信長は宣教師の話をよく聞いていたというから聖書も知っていたのじゃない?」と私。
「そうか、やはりそうだよね。詩編23編を意識してしたことだったか」と変に感心している。
「わがこうべに油を注ぎたもう。わがさかずきはあふるるなり。」
この聖句を、そう読むか。盃に酒を注いだとは書かれていないではないか。もっと正確に読め、我が夫よ」