ごきげんよう!さわこです

一昨日の安息日礼拝は、信徒の証礼拝。

メッセンジャーは高校三年生のS君。

私は、彼が母親の胎内にいるときから知っています。

オムツをしていた時代からあれこれ・・・いろいろ思い出があります。

彼は、身近に「牧師になれ!牧師になれ!」と言い続けるおばちゃんがいました。

彼は、洗脳されてしまったのか、物心ついたた時には「牧師志願」を持つようになっていたと言います。そして今があります。

曽々祖父母、曽祖父母は日曜教会に属するクリスチャンでしたが祖母、両親、彼と三代続くアドベンチスト。曽々祖父母(ひひじいさん)から数えたら5代目。信仰が継承されて行く家族です。

彼の曽々祖父が、私の祖父の兄になります。つまり、私の大伯父さんのひひ孫がS君。

キリスト教会の中で、このような系図が身近にあるものですから、「聖書の系図」にも関心が湧いてくる私です。

 

さて、彼はSDA教団の経営するキリスト教主義の全寮制の学校に中学校から行っており、現在高校三年生。

彼は、キャンパス伝道をすべく導かれて、聖書研究やコワイヤ(聖歌隊)のパスタ―(礼拝司会者)、祈祷会のリーダー的存在になっています。

彼が、神様のくださるチャンスを逃さずに働き続けていると、いつの間にか友人たちが自然に神様につながっていられるようになったり、「一緒に聖書研究をしてくれ」と言ってくるようになってきたのだそうです。このようにして、キャンパス伝道が進んで行く中、日本伝道も進んでいるなと実感できるのだそうです。

神様を信じることができない同級生のために祈りの友と祈り続け、その同級生がバプテスマに導かれて行くという体験を持っています。

そのことによって、ますます彼に牧師になりたい確信が与えられています。

 

春休み、夏休みには、ユースラッシュ(青年文書伝道)に参加をし続けています。

2人一組で文書伝道をしていると、行った先で出身地を聞かれてそれぞれが答えると「もう一人の出身地は?」と聞いて来て、この方の目には3人で働いているとみえたこと、そして3人目は天使がだったという神秘を体験したことや、お坊さんが本を買ってくれたこと、二日で500冊の本を販売できたりという驚くべきことが、自分たちの目の前で起きているのを見て、神様の力を信じる思いがいっそう強められたと話しました。

 

最後に「イエス様の大宣教命令」から、「それゆえにあなた方は行って」との御言葉の意味を話してくれました。

『行って』とは『行け』という命令形ではなく、『行ながら』との意味で『習慣』を意味しているのであると。「習慣として、神様を証しして行きなさい」ということなのだと。それが大宣教命令であるのだと。伝道とは、イベントではなくライフスタイルであり、すべての権能を持ったイエス様の力が、私たちの習慣の中に現れて行くということなのだと。伝道って言うのは、私たちの周りから始まっていくのだと。

 

また、使徒言行録1:8からは、「ただ聖霊があなたがたに降る時、あなた方は力を受けてエルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、更に地の果てまで、私の証人となるであろう」。ここからは、「まず、近い所から始まって、行ながら、だんだん、だんだん進めていきなさいよ、ということが分かると思います。ここでも伝道とは習慣なんです。私たちの周りから始まっていくんです。このことを覚えておきたいのです」と話してくれました。

 

彼の証しを聞きながら、彼のメッセージの中心は、「伝道とはイベントではなく、日常的な習慣の中でイエス様を証して行くこと、聖書の真理を伝えていくことだった」と私は思いました。  

 

私たちが日常の習慣の中で、「イエス様を着る」「イエス様の内に生きる」「イエス様に私の内に入って頂く」ことができるためには、どうしたらよいのでしょうか。

 

それは、毎朝の密室での個人礼拝の継続に尽きるのではないかと思うのです。

 

聖書を通してイエス様の声を聴きイエス様から教えていただく。

このことを抜きでは、イエス様と共にある習慣は根付かないのではないでしょうか。

 

その時間は、日によっては5分かもしれない、15分かもしれない、1時間、2時間させていただけるかもしれない。5分しかできなくても、その朝いただいたイエス様からの御言葉を、一日中思い巡らし続けるならばその一日がデボーションタイムと言えるのではないでしょうか。

 

そのデボーションの時間は、善行や熱心な教会活動、様々な人の必要を満たすための奉仕活動に取って変わることはできません。

そのデボーションの時間から、善行・奉仕・教会活動が生み出されるのでなければ、人間力での善行になりかねません。

彼の証しを思い巡らせながら、私の中でこうしたデボーションのさざ波が優しく満ちてきました。

 

S君、ありがとう!小学生のあなたとの安息日学校分級のクラス時、霊に満たされた喜びを思い出しています。あなたの信仰のバトンは、あなたが中学生になってからも、あなたの後に続いた分級クラスの子どもたちに受け取られています。あなたの後を追って学院に進学して中学生になった子どもたちもイエス様の道をひたすら歩んでいます。今、私は引き続いてあなたたちの弟妹たちとの分級クラスで霊に満たされる喜びの内に生きています。

 

マラナ・タ

「伝道は、イベントではなく習慣」というS君の証にアーメン!

伝道とは、キリストを我が主、我が神、我が救い主と、日々仰ぎ、日々頼り、生きる。

その連続の日々がすなわち習慣であると私も思いました。アーメン!

どこにいても、どの場所にいても、信仰者である者の心が、その瞬間瞬間に、どこにあるか、自分の居場所、立ち位置を、十字架のみもとにあることを自覚する、確認する。そして第七日安息日には創造と贖いの記念日としてのクライマックスとして、私達は神様の安息のただ中に憩わせていただくのです。いつも、イエス様を仰ぎ、聖書を読む、聖書からイエス様の御声を聞き求めることが「習慣」となるならば、父なる神様は私たちに祈るべき祈りを与えてくださり、神様を求めている魂と出会わせて伝道の機会も提供してくださると信じています。また、伝えたい思いやその方法もお与えくださると思っています。そうした思いへの確信を強めてくれたS君の証しでした。S君の体験に基づくメッセージのこもった証しでした。S君ありがとう!あなたの信仰がこれからも健やかに育ち、あなたの牧師になりたい夢の実現を、祈りの内に応援しています。次の帰省の時にもあなたの証しを待っています。