ごきげんよう!さわこです。
先週の安息日の礼拝の後で、Yさんが声をかけてくださいました。
「詩編の中に『愛の淵より呼ばわる・・・』という箇所があったはずなのですが、見つからないのですよ。さわこさん、ご存知ですか。」
その兄弟は、日曜教会の教会員さんなのですが、安息日と日曜日と、週に二回お礼拝に出席なさっていらっしゃいます。
イエス様に激しく捕えられていらっしゃるお方です。
「深い淵ではなくて?」
「いいえ、愛の淵です」
「私もとっさには思い出せません。でも今週、詩編を調べてみます。詩編に親しむ機会をくださってありがとうございます。お互い今週は詩編をじっくり読みましょうね」
と、約束して、お別れしました。
きっと嘆きの詩編の中にあるに違いないと見当をつけながら、詩編を通読しましたが「愛の淵より呼ばわる」というフレーズは見つかりませんでした。
しかし、詩編130編1節 に類似性を見いだしました。
主よ、深い淵から、わたしはあなたを呼び求めます。
主よ、わたしの声を聞いてください。
わたしの願いに耳を傾けてください。
新共同訳、口語訳、新改訳、文語訳、リビングバイブルで確認しましたが、「愛の淵」ではなく「深い淵」となっていました。
私たちの神に対する愛への理解は、それぞれの魂や霊性によって、違いがあります。
つまり、「それぞれの淵の深さ」によるのかもしれません。
新改訳聖書のバイブルナビによると、以下のような解説がありました。
130:1,2
主よ、深い淵から、わたしはあなたを呼び求めます。
主よ、わたしの声を聞いてください。
わたしの願いに耳を傾けてください。
解説
絶望の底で、この記者は神に叫んだ。
絶望は、孤立感と神からの距離感を与えるが、そのようなときには確実に、私たちが神を最も必要としているときである。
罪による絶望感によって自己憐憫に陥り、神よりも自分のことを考えるべきではない。
その代わり、絶望感は罪への告白へとつながり、神のあわれみ、赦し、贖いへとつながるべきである。
私たちが問題に圧倒されているときに、自分のことで悲しくなることは絶望感を増すだけであるが、神に向かって叫ぶことは、真に助けることのできる唯一の方へと、私たちの意識を向ける。
130:3,4
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、
主よ。だれが御前に立ち得ましょう。
しかし、あなたが赦してくださるからこそ
あなたは人に恐れられます。
解説
不義に目を留める(または恨みを抱く)のは、あなたともう一人との間に壁を作るようなものであり、そこに壁がある間は率直に話すことはほぼ不可能である。
神は私たちの不義に目を留めてはおられない。
神が赦す時、完全に赦し、私たちとの間にあるいかなる壁をも打ち崩してくださる。
それゆえに、私たちは神に畏敬の念を持つが、私たちは神にどんなことでも話すことができる。
あなたが祈る時、神はあなたに対して何も敵意を抱いておられないことに気づこう。
神の通信回路は完全に開かれているのだ。
バイブルナビの解説者は
「深い淵」のことを「絶望の底」と言い換えています。
「深い淵」が、「絶望の底」ならば、Y兄弟の「愛の淵」という記憶からずれているかのように感じられます。
しかし、私には「ずれている」とは思えません。
なぜなら、私たちが「絶望の底」にいるときほど、神は近くなるからです。
十字架上のイエス様のお言葉「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
イエス様の「深い淵」「絶望の底」からのこの叫びは、本来私たちが、父なる神との深い断絶(第二の死、永遠の死を受ける時)の故に叫ぶはずのものでした。
イエス様は私たちに代わって叫んでくださった。
その時「深い淵」は「愛の淵」となるのです。
ですから、Yさんは、聖霊によって「深い淵」を「愛の淵」として暗誦させていただいたのではないでしょうか。
記憶違いは、より正しく記憶なさったということではないでしょうか。
しかし、もしかしたら、他の箇所に「愛の淵から呼ばわる」とあるかもしれません。
あるいは、どなたかの個人訳にそういう訳があるかもしれません。
また、詩編88編も、絶望の底にある記者の賛歌です。
主、わたしの救いの神
私は 昼は、叫び、
夜は、あなたの御前にいます。
私の祈りがあなたの御前に届きますように。
どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。
私のたましいは、悩みに満ち、
私のいのちは、よみに触れていますから。
私は穴に下る者とともに数えられ、
力のない者のようになっています。
・・略・・・
あなたは私を最も深い穴に置いておられます。
そこは暗い所、深い淵です。
・・略・・・
バイブルナビの解説を紹介します(部分的に私自身の理解に応じた文章に直しています)
どん底に落ちたように感じたことはあるだろうか。
この記者は非常に弱り、人生そのものに対してさえ絶望している。
すべてのことが悪く、ますます悪化しているときでも、記者はそのことをすべて神に伝えている。
常に元気で前向きでなければならないと考えてはならない。
悲しみと絶望は、癒えるのに時間がかかる。
どんなに弱っていると感じても、私たちはいつも問題を神のみもとに持って行き、心の苦しみを神に言い表すことができるのだ。
私たちの感情はこの詩編記者のように、痛々しく、非常に不安定ではあるけれど、私たちのそのままの感情を神の前に打ち明けるとき、神は私たちの感情の不完全な部分を指摘してくださる。
神は、私たちのこのような感情にも対処してくださるお方なのだ。
この詩編の祈りは、私たちに、すべてのことを神に打ち明けるように教えており、私たちの感情が、神の臨在を否定するときでも、神の臨在を経験できるように私たちを訓練してくれるのだ。
Yさんが、私に尋ねてくださったおかげで、詩編88編にも心留めることができました。
私は、昔も今も「嘆きの詩編」から、神様への素直で率直な祈りを教えていただいています。
Yさん、ありがとうございました。
おかげで、ゆたかなデボーションの時をいただき、神様からの慰めも頂きました。
マラナ・タ
Yさんに書いた手紙を、もう一つのデボーションとしてブログを読んでくださっている信仰の友と分かち合いたいと思います。