ごきげんよう!さわこです
「台風の過ぎた後、秋雨前線が活発化して雨が続くでしょう」
との天気予報通り、朝からの雨。
今朝、デボーションノートに書いた気づきをもう一度味わいながらワードに写しています。
今朝の通読箇所はイザヤ65,66章でした。
現代訳で味わっています。
イザヤ65:1-2
わたしを求めなかった者たちにわたしは現れ
わたしを捜さなかった者たちに見つけられた。
わたしは選民以外にわたしを示した。
わたしは不従順で反抗する民に
一日中 わたしの手を差し伸べていた。
ここは、新共同訳の訳で好きなところのひとつです。
わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは尋ねだされる者となり
わたしを求めようとしない者にも
見出される者となった。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしは、ここにいる、ここにいる、と言った。
反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に
絶えることなく手を差し伸べてきた。
同じ聖書には、このイザヤの言葉とは対極にあるような聖句もあります。
聖書の中でも、知らない人もいない有名な聖句です。
「求めなさい。そうすれば与えられる。
探しなさい。そうすれば見つかる。・・・」マタイ7:8、ルカ11:9
イエス様のお言葉です。
新約聖書の神様と、旧約聖書の神様は違うのでしょうか?いいえ、同じ神様です。
同じイエス様がイザヤ書では
「求めない者に現れ、探さない者に見つけられ、わたしの名を呼ばない者にも『ここにいる、ここにいる』と言った」とおっしゃっています。
「求めなければ、与えられないお方。探さなければ、見つけ出すことのできないお方」だと思ってしまいます。能動的、積極的な人を神様はお好みでしょうか。
人を押し分け、かき分けて前進する、図々しいほどに自己主張する人がお好みなのでしょうか。
控えめで、慎み深い人は、神様の目にはとまらないのでしょうか。
やっぱり、キリスト教は、奥ゆかしさを美徳とする日本人向きではなく、自己主張の強い欧米人向きの宗教なのでしょうか(笑)
もし、そのようなキリスト教論を講釈する人がいたなら、私はイザヤ65章1-2節を開いて読んでもらいたいと思います。
26年前、クリスチャンになったばかりの頃、新しい聖句に出会うたびに、首尾一貫しない聖書の神様に私は翻弄されました。
「このページと、このページでは、真反対のことを言っています。
神様、私は時々、あなたがわからなくなります。
どちらが正しいのですか?」
「わたしの言葉はどちらも正しいのだよ。
人の個性が異なり、人が置かれている状況も違う。
人の感受性の強弱も違う。理解の仕方も違う。
一人一人、違うように、個性を持って私は造ったのさ。
「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞさんの詩)ように造ったのさ」
と神様はにっこり笑っておっしゃいました。
神様を自分の思考の枠にはめて理解しようとする己の愚かさを知りました。
イザヤ65:8
主はこう言われる。
ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな。
そこには祝福があるから、と人は言う。
わたしは、わが僕らのために
すべてを損なうことはしない。
新共同訳ではなんだか分かりにくいですが、現代語訳ではすっきりわかります。
主はこう仰せられる。
ぶどうの房の中に、少しでも甘い粒があれば
その房を全部捨ててしまわないように
わたしも、わたしの民全部を滅ぼしはしない。
甘い汁を含んだぶどうの粒
それは、イエス様につながっているぶどうの実
イエス様のいのちが流れこんだぶどうの実
選民であるイスラエルの中にも、
キリスト教会の中にも、
イエス様のいのちを拒んだ汁のない実もある。
ふと「毒麦のたとえを」思い出しました。(マタイ13:24-30)
良い種の蒔かれた畑に敵がやってきて毒麦の種を蒔きました。
ぶどうの房の中にある甘いぶどうは麦で、汁のないぶどうが毒麦だなんて推測していいのでしょうか?
教会の中にも、選民の中にも、敵が毒麦を蒔いているかもしれない、たとえそうであっても誰が毒麦であるか、などと疑心暗鬼を生じさせたりはしないでいいのです。
しもべが『抜き集めましょうか』と言うと、神様は『毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、先ず毒麦を集め焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』
神様が最期のさばきの時に解決してくださるのですから、
イエス様につながって、イエス様のいのちをいただいて、甘い実を結ばせていただきましょう。
イエス様によって蒔いていただいた良い麦と信じて豊かな穂を実らせていただきましょう。
イザヤ66章
66:18 現代訳
わたしは、彼らの心の思いと、していることを知っている。
わたしは、全世界の人々を集めるために来る。
彼らは来て、わたしの栄光を見る。
神様は私たちの隠された心の思いをご存知です。
私たちの行いも知っておられます。
その動機も、善であるか偽善であるかも、知られています。
神様は「全世界の人々を集めるために来る」とおっしゃっています。
麦も毒麦も、人目には見分けがつかなくても神様はご存知ですから、正しくより分けて正しく裁かれます。
ご再臨のその日は、恐怖の日でしょうか?
いいえ「彼らは来てわたしの栄光を見る」とありますから、その日は神様の栄光をまのあたりに目撃できる日です。
マラナ・タ
「台風の過ぎた後、秋雨前線が活発化して雨が続くでしょう」
との天気予報通り、朝からの雨。
今朝、デボーションノートに書いた気づきをもう一度味わいながらワードに写しています。
今朝の通読箇所はイザヤ65,66章でした。
現代訳で味わっています。
イザヤ65:1-2
わたしを求めなかった者たちにわたしは現れ
わたしを捜さなかった者たちに見つけられた。
わたしは選民以外にわたしを示した。
わたしは不従順で反抗する民に
一日中 わたしの手を差し伸べていた。
ここは、新共同訳の訳で好きなところのひとつです。
わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは尋ねだされる者となり
わたしを求めようとしない者にも
見出される者となった。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしは、ここにいる、ここにいる、と言った。
反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に
絶えることなく手を差し伸べてきた。
同じ聖書には、このイザヤの言葉とは対極にあるような聖句もあります。
聖書の中でも、知らない人もいない有名な聖句です。
「求めなさい。そうすれば与えられる。
探しなさい。そうすれば見つかる。・・・」マタイ7:8、ルカ11:9
イエス様のお言葉です。
新約聖書の神様と、旧約聖書の神様は違うのでしょうか?いいえ、同じ神様です。
同じイエス様がイザヤ書では
「求めない者に現れ、探さない者に見つけられ、わたしの名を呼ばない者にも『ここにいる、ここにいる』と言った」とおっしゃっています。
「求めなければ、与えられないお方。探さなければ、見つけ出すことのできないお方」だと思ってしまいます。能動的、積極的な人を神様はお好みでしょうか。
人を押し分け、かき分けて前進する、図々しいほどに自己主張する人がお好みなのでしょうか。
控えめで、慎み深い人は、神様の目にはとまらないのでしょうか。
やっぱり、キリスト教は、奥ゆかしさを美徳とする日本人向きではなく、自己主張の強い欧米人向きの宗教なのでしょうか(笑)
もし、そのようなキリスト教論を講釈する人がいたなら、私はイザヤ65章1-2節を開いて読んでもらいたいと思います。
26年前、クリスチャンになったばかりの頃、新しい聖句に出会うたびに、首尾一貫しない聖書の神様に私は翻弄されました。
「このページと、このページでは、真反対のことを言っています。
神様、私は時々、あなたがわからなくなります。
どちらが正しいのですか?」
「わたしの言葉はどちらも正しいのだよ。
人の個性が異なり、人が置かれている状況も違う。
人の感受性の強弱も違う。理解の仕方も違う。
一人一人、違うように、個性を持って私は造ったのさ。
「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞさんの詩)ように造ったのさ」
と神様はにっこり笑っておっしゃいました。
神様を自分の思考の枠にはめて理解しようとする己の愚かさを知りました。
イザヤ65:8
主はこう言われる。
ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな。
そこには祝福があるから、と人は言う。
わたしは、わが僕らのために
すべてを損なうことはしない。
新共同訳ではなんだか分かりにくいですが、現代語訳ではすっきりわかります。
主はこう仰せられる。
ぶどうの房の中に、少しでも甘い粒があれば
その房を全部捨ててしまわないように
わたしも、わたしの民全部を滅ぼしはしない。
甘い汁を含んだぶどうの粒
それは、イエス様につながっているぶどうの実
イエス様のいのちが流れこんだぶどうの実
選民であるイスラエルの中にも、
キリスト教会の中にも、
イエス様のいのちを拒んだ汁のない実もある。
ふと「毒麦のたとえを」思い出しました。(マタイ13:24-30)
良い種の蒔かれた畑に敵がやってきて毒麦の種を蒔きました。
ぶどうの房の中にある甘いぶどうは麦で、汁のないぶどうが毒麦だなんて推測していいのでしょうか?
教会の中にも、選民の中にも、敵が毒麦を蒔いているかもしれない、たとえそうであっても誰が毒麦であるか、などと疑心暗鬼を生じさせたりはしないでいいのです。
しもべが『抜き集めましょうか』と言うと、神様は『毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、先ず毒麦を集め焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』
神様が最期のさばきの時に解決してくださるのですから、
イエス様につながって、イエス様のいのちをいただいて、甘い実を結ばせていただきましょう。
イエス様によって蒔いていただいた良い麦と信じて豊かな穂を実らせていただきましょう。
イザヤ66章
66:18 現代訳
わたしは、彼らの心の思いと、していることを知っている。
わたしは、全世界の人々を集めるために来る。
彼らは来て、わたしの栄光を見る。
神様は私たちの隠された心の思いをご存知です。
私たちの行いも知っておられます。
その動機も、善であるか偽善であるかも、知られています。
神様は「全世界の人々を集めるために来る」とおっしゃっています。
麦も毒麦も、人目には見分けがつかなくても神様はご存知ですから、正しくより分けて正しく裁かれます。
ご再臨のその日は、恐怖の日でしょうか?
いいえ「彼らは来てわたしの栄光を見る」とありますから、その日は神様の栄光をまのあたりに目撃できる日です。
マラナ・タ