ごきげんよう!さわこです
島田牧師の講演集「永遠の福音」より、第ニ天使のメッセージを紹介します。
「また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が』」黙示録14:8
大バビロンが倒れたとは・・・
実は、倒れるのはこれから先のことなのですが、必ず倒れるので「倒れた」と完了形なのです。
大バビロンとは・・・
みだらな行いのぶどう酒を飲ませた都のことです。
バビロンの本質とは、神に背を向ける、神の愛に背を向ける精神や考え方です。
たんに聖書の真理を受け入れない教会や他の宗教や人々を指すこと以上の深いものです。
神はすべての人を救いたいと永遠の命を与えたいと願っておられます。
しかし、すべての人間が救われるわけではありません。
キリストは全人類のために十字架で死んでくださいましたが、
全人類が天国に行くわけではないのです。
誰が天国に行くことができないのでしょうか。
救われない罪などあるのでしょうか。
キリストは「人の犯すすべての罪は赦される。神を冒涜するすべての言葉も赦される。でもこの罪だけは赦されない」と言われました。
この罪とは「聖霊を拒む罪」です。
それは神の(キリストの)招きに応じないことです。
放蕩息子も、徴税人のレビも、クリスチャンを迫害していたサウロ(パウロ)も聖霊の招きに応じました。
罪の根本問題とは何でしょうか。
エデンの園でサタンは、アダムとエバを誘惑しました。
あの善悪を知る知識の実のほかにもたくさん食べられる木の実はあったのです。
しかしサタンは、禁断の木の実に目を向けさせました。
「お前たちは本当に自由なのか?幸せなのか?もっと幸せになる道があるとは思わないか?束縛されて不自由とは思わないか?もっと自由になれよ。もっと幸せになれよ。自分で好きな道を思い通りに生きろよ」
放蕩息子にも同じようにサタンは語り掛けました。
善悪を知る木とは、善と悪が何であるかをわきまえる知恵が与えられるという意味ではありません。
何が善であり、何が悪であるかを、決定することができる権利を持つことを意味する実だったのです。
自分が神になって、何が善であり、何が悪であるかを決めることができる道に行け、というのがサタンの誘惑でした。そしてこれが罪の本質なのです。
私が神になろう。私が人生の支配者になろう。罪はここから始まりました。
私たちの罪の根源には、自らが神になろうとする思いがあるのです。
そして、じつはそれがバビロンなのです。
バビロンという言葉は、旧約聖書のバベルの塔から来ており、その意味は混乱、混迷です。
ノアの洪水の後、人々はバベルの塔という」高い塔を建てました。
なぜ建てたのか、EGホワイトは「人類のあけぼの」という本の中で三つの理由をあげています。
① 神の恵みの約束を信じない「不信仰」
神ノアに契約の虹を見せて、もう二度とこの地上を洪水で滅ぼすことはしないと約束されました。しかし、人々は時が過ぎると、洪水の記憶だけをしっかりと胸に刻み、神の恵みの約束を忘れたのです。そして、洪水が来ても滅びないほどの高い塔を建てようとしたのです。
今日、私たちは神の恵みの約束を信じているでしょうか。「あなたの罪はキリストの十字架によってすべて赦された。あなたを必ず救う」という約束を信じているでしょうか。
時々、想像を絶するような痛ましい現実に遭遇します。
予期しない事故、人間関係の破綻、経済的な困難。
本当に神は私を愛しているのだろうか、神は本当に存在しているのだろうか、と疑問を持つことがありませんか。
② 自分で自分を救おうとする「行いによる義」
もう一度、洪水が来たら、その時には自分で自分を救うために塔を建てようとしたのです。善きクリスチャンとして神に受け入れられようと頑張って頑張って疲れていく。
そういう精神、そういう思いは私たちの中にありませんか。
③ 自らの名前を高めようとする「自己称揚」
人は誰でもほめられ、支えられて、力を得て行きますが、でも一歩間違えると、自分の名前を高めようとする高慢さ、傲慢さに陥りかねません。
バビロンとはそういう状態に陥ることなのです。
このような三つの相乗作用で混乱・混迷の中に落ち込んでいきます。
「ほとんどの偽りの宗教は、人間自身の努力によって救いを得ることができるという原則に基づいている」とEGホワイトは言っています。
献金をたくさん要求する宗教、努力を要求する宗教、それはバビロンの精神に支配された宗教です。
では、この世において、神の国に生きるとはどういうことでしょうか。
それは神を神として生きる精神です。
私たちの祈りを吟味してみましょう。
自分の願いのために、神を利用していませんか。自分の願いのために、神を強力な助っ人として、利用するような祈りをささげてはいませんか。
ゲッセマネのキリストの祈りは、こうでした。
「神様、私の願いはこうですが、でも私の思いではなく、あなたのみ旨がなりますように」
この祈りこそが、バビロンからの解放の祈りなのです。
人生のすべてを神にゆだね、明け渡していくこと、自分ではなく、神を神として、ただひたすら礼拝すること。
EGホワイトは、毎朝、次のように祈りなさいと言っています。
「主よ、しもべを完全にあなたのものとしてお受け入れください。私のすべての計画をあなたの御前におきます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どうか、私と共にあって、すべてのことをあなたにあってなさせてください」
この祈りは「私をあなたの器として、あなたのご計画の中で用いてください」という祈りですが、私たちは往々にして「私にはこういう計画がありますから、ついては神様、その計画が実現できるように助けてください」という祈りになってしまいがちです。
私たちが本当にバビロンから解放されて行く道は、自分を神に完全に明け渡して、神を神として「私はあなたの器に過ぎません。私を用いてください」とへりくだっていくことです。ここに、神と私たちとの愛の関係・信頼の関係があります。
私たちの混乱した混迷きわまりない祈り・信仰生活からの解放です。
これこそが「バビロンが倒れた。大バビロンが倒れた」という第二天使のメッセージです。
私たちの内にあるバビロの精神が倒れていかなければ、私たちは大バビロンと共に倒れてしまいます。
イエス・キリストが来られる時、大バビロンは倒れて行きます。
大バビロンの支配者であるサタンも滅びます。
マラナ・タ
キリストの再臨の時に、サタンと大バビロンは倒れて滅び去ります。
再臨のその時までに、私たちの心の中にあるバビロンが倒されて、神を神とする信仰へと立ち帰っていなければ、現在は「失われたままの人」であり、将来は「滅びゆく人」となってしまうのです
神の招きに従うのは「今」今しかないのです。
私たちのこの世のいのちは明日の保証はありません。
ご再臨に備えるということは、今、この時、です。
島田牧師の講演集「永遠の福音」より、第ニ天使のメッセージを紹介します。
「また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が』」黙示録14:8
大バビロンが倒れたとは・・・
実は、倒れるのはこれから先のことなのですが、必ず倒れるので「倒れた」と完了形なのです。
大バビロンとは・・・
みだらな行いのぶどう酒を飲ませた都のことです。
バビロンの本質とは、神に背を向ける、神の愛に背を向ける精神や考え方です。
たんに聖書の真理を受け入れない教会や他の宗教や人々を指すこと以上の深いものです。
神はすべての人を救いたいと永遠の命を与えたいと願っておられます。
しかし、すべての人間が救われるわけではありません。
キリストは全人類のために十字架で死んでくださいましたが、
全人類が天国に行くわけではないのです。
誰が天国に行くことができないのでしょうか。
救われない罪などあるのでしょうか。
キリストは「人の犯すすべての罪は赦される。神を冒涜するすべての言葉も赦される。でもこの罪だけは赦されない」と言われました。
この罪とは「聖霊を拒む罪」です。
それは神の(キリストの)招きに応じないことです。
放蕩息子も、徴税人のレビも、クリスチャンを迫害していたサウロ(パウロ)も聖霊の招きに応じました。
罪の根本問題とは何でしょうか。
エデンの園でサタンは、アダムとエバを誘惑しました。
あの善悪を知る知識の実のほかにもたくさん食べられる木の実はあったのです。
しかしサタンは、禁断の木の実に目を向けさせました。
「お前たちは本当に自由なのか?幸せなのか?もっと幸せになる道があるとは思わないか?束縛されて不自由とは思わないか?もっと自由になれよ。もっと幸せになれよ。自分で好きな道を思い通りに生きろよ」
放蕩息子にも同じようにサタンは語り掛けました。
善悪を知る木とは、善と悪が何であるかをわきまえる知恵が与えられるという意味ではありません。
何が善であり、何が悪であるかを、決定することができる権利を持つことを意味する実だったのです。
自分が神になって、何が善であり、何が悪であるかを決めることができる道に行け、というのがサタンの誘惑でした。そしてこれが罪の本質なのです。
私が神になろう。私が人生の支配者になろう。罪はここから始まりました。
私たちの罪の根源には、自らが神になろうとする思いがあるのです。
そして、じつはそれがバビロンなのです。
バビロンという言葉は、旧約聖書のバベルの塔から来ており、その意味は混乱、混迷です。
ノアの洪水の後、人々はバベルの塔という」高い塔を建てました。
なぜ建てたのか、EGホワイトは「人類のあけぼの」という本の中で三つの理由をあげています。
① 神の恵みの約束を信じない「不信仰」
神ノアに契約の虹を見せて、もう二度とこの地上を洪水で滅ぼすことはしないと約束されました。しかし、人々は時が過ぎると、洪水の記憶だけをしっかりと胸に刻み、神の恵みの約束を忘れたのです。そして、洪水が来ても滅びないほどの高い塔を建てようとしたのです。
今日、私たちは神の恵みの約束を信じているでしょうか。「あなたの罪はキリストの十字架によってすべて赦された。あなたを必ず救う」という約束を信じているでしょうか。
時々、想像を絶するような痛ましい現実に遭遇します。
予期しない事故、人間関係の破綻、経済的な困難。
本当に神は私を愛しているのだろうか、神は本当に存在しているのだろうか、と疑問を持つことがありませんか。
② 自分で自分を救おうとする「行いによる義」
もう一度、洪水が来たら、その時には自分で自分を救うために塔を建てようとしたのです。善きクリスチャンとして神に受け入れられようと頑張って頑張って疲れていく。
そういう精神、そういう思いは私たちの中にありませんか。
③ 自らの名前を高めようとする「自己称揚」
人は誰でもほめられ、支えられて、力を得て行きますが、でも一歩間違えると、自分の名前を高めようとする高慢さ、傲慢さに陥りかねません。
バビロンとはそういう状態に陥ることなのです。
このような三つの相乗作用で混乱・混迷の中に落ち込んでいきます。
「ほとんどの偽りの宗教は、人間自身の努力によって救いを得ることができるという原則に基づいている」とEGホワイトは言っています。
献金をたくさん要求する宗教、努力を要求する宗教、それはバビロンの精神に支配された宗教です。
では、この世において、神の国に生きるとはどういうことでしょうか。
それは神を神として生きる精神です。
私たちの祈りを吟味してみましょう。
自分の願いのために、神を利用していませんか。自分の願いのために、神を強力な助っ人として、利用するような祈りをささげてはいませんか。
ゲッセマネのキリストの祈りは、こうでした。
「神様、私の願いはこうですが、でも私の思いではなく、あなたのみ旨がなりますように」
この祈りこそが、バビロンからの解放の祈りなのです。
人生のすべてを神にゆだね、明け渡していくこと、自分ではなく、神を神として、ただひたすら礼拝すること。
EGホワイトは、毎朝、次のように祈りなさいと言っています。
「主よ、しもべを完全にあなたのものとしてお受け入れください。私のすべての計画をあなたの御前におきます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どうか、私と共にあって、すべてのことをあなたにあってなさせてください」
この祈りは「私をあなたの器として、あなたのご計画の中で用いてください」という祈りですが、私たちは往々にして「私にはこういう計画がありますから、ついては神様、その計画が実現できるように助けてください」という祈りになってしまいがちです。
私たちが本当にバビロンから解放されて行く道は、自分を神に完全に明け渡して、神を神として「私はあなたの器に過ぎません。私を用いてください」とへりくだっていくことです。ここに、神と私たちとの愛の関係・信頼の関係があります。
私たちの混乱した混迷きわまりない祈り・信仰生活からの解放です。
これこそが「バビロンが倒れた。大バビロンが倒れた」という第二天使のメッセージです。
私たちの内にあるバビロの精神が倒れていかなければ、私たちは大バビロンと共に倒れてしまいます。
イエス・キリストが来られる時、大バビロンは倒れて行きます。
大バビロンの支配者であるサタンも滅びます。
マラナ・タ
キリストの再臨の時に、サタンと大バビロンは倒れて滅び去ります。
再臨のその時までに、私たちの心の中にあるバビロンが倒されて、神を神とする信仰へと立ち帰っていなければ、現在は「失われたままの人」であり、将来は「滅びゆく人」となってしまうのです
神の招きに従うのは「今」今しかないのです。
私たちのこの世のいのちは明日の保証はありません。
ご再臨に備えるということは、今、この時、です。