ごきげんよう!さわこです。

10日の金曜日の夕方。
聖書的に言えば、「夕あり、朝あり」ですから、安息日に入ったばかりの頃。

「おーい、開けてくれー」
とトイレから夫の声が・・・
「開かなくなったから、外から開けてくれ」
私はドアノブの鍵の部分にコインを差し込んで回わすのですが、鍵は一向に開く気配はありません。夫も私も扉を開けようと懸命であるにも関わらず開かない扉。

私は開けようと、何度も試みながら祈りました。

そして、黙示録3:20を思いました。
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

この事件は、神様の御目から見たならば、何かの象徴のようなものかもしれないと思いました。
そんなことを、夫に言ったら不快感をもろに表すだけですから、勿論ヒミツ。

「そうだわ!ペンチとドライバーを持ってくるから、窓を開けておいてね」
「おお!プラスとマイナスのを、小さい目のも頼む」
一階のトイレですから、通路に回って窓から、ペンチとドライバーを手渡しました。

夫が作業しやすいように、ゆるゆるするドアノブを扉の外から押さえつけます。
ついに、ドアノブを中から外すことに成功。
後は小さいドライバーで、はまり込んだ部分を外して、ようやく扉は開きました。

「一人っきりの時でなくて良かったわね。あるいは逆だったら、私ではドアノブを取り外すことはできなかったわね」
と、良いタイミングを神様が備えてくださったことを感謝しました。

神様は黙示録3:20にあるように、いつも私たちの心の扉をたたいていらっしゃいます。
それは、いつまででしょうか?永遠に神様はたたき続けてくださるのでしょうか?
あるいは、中にいる人が、自分から開けようとしない時には、神様の方から勝手に実力行使で開けて入って来られるのでしょうか?

そのどちらでもありません。
人間の方から、「どうぞ、お入りください」と自らの心の扉を開けるならば、神様は入ることがおできになるのです。
全知全能の神様ですが、神様は人間の自由意志を尊重なさいます。

でも、神様は人間の自由意思にいつもノックしておられるのです。
「それでいいのか?その選択はあなたにとって幸せなのか?その選びはあなたに真の自由を得させるのか?・・・」


我が家のトイレの扉が開かなくなった事件―
この事件から、夫も私もそれぞれに学ぶことはあるはず。

ノアの箱舟の扉は、ずっと開けっ放しだったのでしょうか?
雨が降りはじめた時に、それまでノアの言葉を信じないで嘲笑っていた人々が、全員、飛び込めるように箱船の扉は開いていたのでしょうか?
愛なる神様は、不信心なものを、ありのままの姿のままに愛されるので、救いの扉を閉めることは決してないのでしょうか?

イエス様が御再臨なさった時には、天の国に昇っていけるものと、イエス様の義の光を恐れて逃げ惑う人とに、はっきり分かれてしまうのです。

恵みを受けた者、自ら恵みを拒んだ者。
人間はどちらかに属するのです。

恵みを受けた者は永遠の命を受け、恵みを拒んだものは永遠の滅びです。
私たちの地上人生は、実は明日をも知れぬ命なのです。
イエス様を我が主と告白できるのは、この地上人生の間だけ。
各自が地上人生を終えた時には、各自に開かれた恵みの扉は閉じられることになるのではないでしょうか。

イエス・キリストなる神様を知らなくても、知っているかのごとく生きてきた人は、真実の神様を知り受けいれている証拠です。
自分でも気づかぬうちに、イエス様を愛し、イエス様に愛され、救われたものとしての地上人生を歩んでいるのでしょうね。

夫よ、あなたの曽祖父母が、祖母が、父が信じたイエス様をあなたも受け入れてください。
私の父母が信じたイエス様に、息子の日々を支えてくれているイエス様にあなたの心の扉を開いてください。
天に行ってからも、私と一緒は嫌ですか?(笑)


マラナ・タ
トイレの扉が開くまで―
この特別の聖なる祈りの時間をくださった神様、ありがとうございます。