ごきげんよう! さわこです。

四月から、私の子供の聖書クラスは様変わり。
小学3年生から6年生までのメンバーです。

3月までは6年生の女子が3人。
信仰に燃える少女たちでしたから、中学生レベルの内容の授業でしたが、みんなしっかりと受け止めてくれて、確かな反応がありました。
しかし、今回はいままでのようなわけにはいかず、
「どうしたもんじゃろのう」(笑) と神様に授業の方法を教えてくださいとお祈りをしていました。
すると、聖句と讃美歌をドッキングさせた方法を示してくださいました。

例えば、「神の国と神の義を」を歌います。

1、 神の国と 神の義をまず求めなさい
そうすればみな与えられる
ハレル、ハレルヤ

聖書のマタイ6:33を引いて、赤鉛筆で印をつけます。
そして「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、みな加えて与えられる」と全員で音読します。

次に2番を歌います。
2、 神に求め祈る時 聞いてくださる
たたけば、戸は 開かれる
ハレル、ハレルヤ

マタイ7:7を開いてもらいます。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」を全員で音読して、聖書にも赤鉛筆で印をつけます。


子供たちの聖書分級の前に30分ほど、ゲームをして遊ぶのですが、3年生のまあちゃんが、何かあったのか、教室の隅っこですねて泣いてしまっていました。

私は、ゲームタイムには教科の準備をしていてその場にいなかったので、泣いている理由はよくはわかりませんでした。
さらっと声をかけました。「気分が落ち着いたら、来てね。まあちゃんのお席は私の隣に用意してあるから、待ってるよ。」


そして授業がはじめました。
「まあちゃん、何か、悲しいことがあったんだんね。みんなも悲しいことってあるでしょう?」と聞くと、4年5年6年の4人の生徒は「うん、ある」と言いました。

「イエス様は、悲しむ人々は、幸いである」っておっしゃったわね、と私が言うと、4年生のけい君が「その人たちは、なぐさめられる」と続きの聖句を言いました。

「そうね、だから、大いに悲しんでいいの。いっぱい泣いてもいいのよ」と言ってから、
「じゃあねえ、『日々の祈り』を歌いましょう。この歌によって、どんなお祈りが大切かを神様はおしえてくださっています。」

♪日々の祈り、わたしのねがいは
神を知ること、愛すること、主に従うことです


をくりかえし繰り返し、歌いました。
神を知ること、愛すること、従うことは、日々の生活の中で、どうやって経験できるかを、話してから、また歌いました。

隅っこにいるまあちゃんが、ちらちらこちらを見ているのが分かります。

じゃあ、次は「神の国と神の義を」と言って、みんなで歌いました。
聖書も引いて、聖句を確認して、全員で聖書を読みました。
そして、また、繰り返し、歌いました。

今日、この2つの歌を選んだのは、まあちゃんのためでした。
前にやった時には、まあちゃんがお休みでしたから、みんなの足並みをそろえるためだったのです。

ところが、肝心のまあちゃんが授業には参加していません(笑)
予定通りにはいかないものです(笑)

最後に「悲しむ人々は幸い」の箇所を引きました。

マタイ5:4「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」
全員で読んでもらいました。

「どうして、さいわいなのかなあ」

「なぐさめられるから」

「そうね、イエス様に慰めていただけるから、悲しむ人は幸いなのね。
今、まあちゃんは、とってもさいわいなのよ。私たちも、イエス様のように、人を慰めることができるようになりましょうね。でも人が人を慰めるって、けっこう難しいのよね。慰め方を間違えると、ますます泣かれたりもしますからね」
というと、経験があるのか、うなずいてくれます。

「まあちゃんは、今日はイエス様がなぐさめてくださっているから、大丈夫よ。さあ、時間になりました。終わりのお祈りをしましょう。」


4人の子供たちが順々にお祈りをしてくれました。
すると、いつのまにか、まあちゃんが、私の隣の席に来ているではありませんか!

「最後は、私にお祈りさせてくださいね。まあちゃんのために祈ります。イエス様がまあちゃんをなぐさめてくださってありがとうございました。私たちは弱いですから、悲しくなることがいっぱいあります。泣いたことのない人は誰もいません。でもいつもイエス様は一緒にいて慰めてくださいますから、元気になります。イエス様のお名前で感謝してお祈りします」


私たちが悲しむ理由はさまざまです。
まあちゃんの悲しみの原因を私は知りませんでした。

だれかのせいだったのか、彼女のわがままだったのか、がまんしすぎてしまったのか、
原因は分からなくてもいいと思いました。

もし、私が彼女につきっきりになっていたら、授業は成り立ちません。
まあちゃんも大事です。ほかの子どもたちも大事です。

まあちゃんには「来られるようになったら、おいで。待ってるよ」とだけ言いました。

でも、授業中にも、まあちゃんも一緒だよ…と、まあちゃんが疎外感を感じてしまうことのないようにとつとめました。
あとは、イエス様におまかせです!

イエス様は助けてくださいました。
授業の最後には、まあちゃんは自分からやって来て、お祈りの輪の中に入ってきたのですから!

今日、5人のこどもたちは「悲しむ人々はさいわいである。その人たちは慰められる」ことをそれぞれに体験したのです。
イエス様は悲しみの原因によって「この悲しみの人はなぐさめてあげるが、あの悲しみの人はなぐさめるわけにはいかないね」と区別なさるでしょうか?

もし、悲しみの原因が「わがまま」だったとしても「身勝手な自己中心的なもの」であったとしても、イエス様は分け隔てなく慰めてくださり、イエス様はその愛によって、慰めと共に反省の気持ちも起こしてくださいます。


マラナ・タ

今日の授業は、イエス様が助けてくださいました。
あれこれ、自分の知恵で頑張ろうとするのではなく、
聖霊様の不思議なお導きの流れに乗っ、時間は過ぎていきました。

生徒たちも、私も、御言葉に生かされる、御言葉に導かれる
ということを体験できたように思います。