あなたの友 聖霊」⑧第6章―献身の時②-
ごきげんよう! さわこです。
第6章「献身の時」の続きです。
あなたの友・聖霊は、私たちをイエスのもとにいつも導いてくださる!
これがこの章を読んでの私の結論です!
神に献身するようになるまでには時間がかかります。
絶対的な献身は、すべての人に同じように起こるわけでもないのです。
献身するまでには段階を踏みます。
「自分に頼り、失敗に終わる経験がくりかえされているならば、いつしか大きな危機が来ます。それは神に心をささげなければならなくなる時です。それは、どんな時でしょうか。
それは小さい危機に失敗した者にはやがて大きな危機が来ます」
①人生一般について
・ 掛け算の九九ができなかったら、大学で数学をやるときに大きな危機に直面します。
・ 泳ぎの犬かきができなければ、英国海峡を泳ぐときに大きな危機にぶつかります。
・ 一本の煙草をのむならば、いつか肺がんになると言う危機に臨みます。
・ 10セントをごまかすならば、やがて窃盗罪を犯す危機が来ます。
②ペトロの場合について
ペトロが失敗した小さな危機
・ 湖を一人で歩けると思った。(マタイ14:22-33、マルコ6:45-52、ヨハネ6:15-21)
・ 宮に納める税金の時(マタイ17:24-27)
・ キリストの使命の中に十字架を見ることができなかった。キリストから「サタンよ、と退け」と叱責された。
・ イエスが逮捕される時、大祭司の手下の耳を切り落とした。
・ 他にもいろいろ・・・そして最後にイエスを知らないと言った、最大の危機となった。
③エノク、エリシャ、ダニエルの場合
小さいことを神に頼って正しく処理をしてきたので、テストも小さい規模で済んだ
④エサウの場合
レンズ豆のスープで長子の権利をヤコブに売った・・・それの意味する人生の最大の危機に気づかなかった。
⑤ヤコブの場合
・ 欺瞞に走り小さいテストで失敗・・・父の家から逃げ出し途中ベテルで悔い改めた。そこで神に献身した。
・ それから20年、叔父ラバンのもとで努力を続けた。神との関わりは持っていたが、自分の方法で事を運ぼうとした・・・すべての試みは危機に瀕した。ヤボクの渡しで戦った夜には、自分のすべての力を使い果たした。
ヤコブの場合を通してよくわかることは、時間の必要性と段階があること。
1ヤコブの悔い改めと改心。
2それから20年間自分で戦った。
3ヤボクの渡しで、朝まで自力で神と戦い続けた。
4夜が明けた時、ヤコブは戦うのをやめて神に縋りついた。
ヤコブの生涯における転換期、神に自分をささげる(献身)時が来た。
人間の性質を、神の性質に変えるのに時間がかかる。
人間の性質を堕落させるのにもサタンのようにするのにも時間がかかる。
ヤコブはヤボクの渡しで、20年前に神とベテルで約束したことを、20年間かけて自分の力でしようと努力してきたことに気づいた。
ようやく、ヤコブは、神に自分をゆだねることが勝利への道であることに気づいた。
ヤボクの渡しで、ヤコブは肩に手を感じた。そしてそれを敵と誤解し戦った。
神が私たちの所に来て、肩に手を置かれる時、敵ではなく友と認めることができれば素晴らしい。
私たちの最大の力は、自分の弱さを感じ取りそれを認める時です。
人類のあけぼの 飢え220,221ページより、EGホワイトの言葉
「ヤコブが自分の力をふるって獲得できなかったものを得たのは、自己降伏と堅い信仰によってであった。こうして彼は、彼の熱望した祝福を与え得るものは神の力と恵みだけであることを教えられた。
最後の時代においてもこれと同様である。
危機に直面し、絶望に陥る時、ただ、贖罪の功績だけに頼らなければならない。われわれは自力では何もできない。十字架につけられ復活された救い主の功績に頼らなければならない。そうするかぎり、だれひとり滅びることはない」
私たちの生涯でヤコブのような転換の時期(献身)がどんな形をとるかはわからないが、日々イエスとの信頼と交わりの関係を続けようとするならば、必ず、自力ではなく神に頼るようになる時が来る」
人類のあけぼの 上 219,220ページ より(彼という表現を私たちと書き換えました)
神の民も、悪との勢力との最後の闘いにおいて、ヤコブと同じ経験をするのであるが、・・・サタンは、私たちの罪は大きすぎて赦しを受けることはできないと思わせ恐怖に陥れようとする。自分たちの欠点を十分に知りその生涯を振り返ってみれば絶望的である。しかし、神の大きなあわれみと自分たちの真心からの悔い改めを思い出す。キリストによって与えられる神の約束を懇願する。私たちの祈りが直ちに聞かれなくても、くじけないで『私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』とヤコブのように心から言おう。
戦いがは激しく、敵は全力を尽くして、私たちを恐れさせ、失望させようとしますが、神の手がその時、私たちの肩に置かれるのです!
失望の淵にあって、肩に置かれた手は、敵ではない!
それは、私たちを救われる最良の友、神の手!
マラナ・タ
いつくしみふかき 友なるイエスは
罪とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまずのべて
などかは おろさぬ 負える重荷を
あなたの友・聖霊は、私たちをイエスのもとにいつも導いてくださる!
ごきげんよう! さわこです。
第6章「献身の時」の続きです。
あなたの友・聖霊は、私たちをイエスのもとにいつも導いてくださる!
これがこの章を読んでの私の結論です!
神に献身するようになるまでには時間がかかります。
絶対的な献身は、すべての人に同じように起こるわけでもないのです。
献身するまでには段階を踏みます。
「自分に頼り、失敗に終わる経験がくりかえされているならば、いつしか大きな危機が来ます。それは神に心をささげなければならなくなる時です。それは、どんな時でしょうか。
それは小さい危機に失敗した者にはやがて大きな危機が来ます」
①人生一般について
・ 掛け算の九九ができなかったら、大学で数学をやるときに大きな危機に直面します。
・ 泳ぎの犬かきができなければ、英国海峡を泳ぐときに大きな危機にぶつかります。
・ 一本の煙草をのむならば、いつか肺がんになると言う危機に臨みます。
・ 10セントをごまかすならば、やがて窃盗罪を犯す危機が来ます。
②ペトロの場合について
ペトロが失敗した小さな危機
・ 湖を一人で歩けると思った。(マタイ14:22-33、マルコ6:45-52、ヨハネ6:15-21)
・ 宮に納める税金の時(マタイ17:24-27)
・ キリストの使命の中に十字架を見ることができなかった。キリストから「サタンよ、と退け」と叱責された。
・ イエスが逮捕される時、大祭司の手下の耳を切り落とした。
・ 他にもいろいろ・・・そして最後にイエスを知らないと言った、最大の危機となった。
③エノク、エリシャ、ダニエルの場合
小さいことを神に頼って正しく処理をしてきたので、テストも小さい規模で済んだ
④エサウの場合
レンズ豆のスープで長子の権利をヤコブに売った・・・それの意味する人生の最大の危機に気づかなかった。
⑤ヤコブの場合
・ 欺瞞に走り小さいテストで失敗・・・父の家から逃げ出し途中ベテルで悔い改めた。そこで神に献身した。
・ それから20年、叔父ラバンのもとで努力を続けた。神との関わりは持っていたが、自分の方法で事を運ぼうとした・・・すべての試みは危機に瀕した。ヤボクの渡しで戦った夜には、自分のすべての力を使い果たした。
ヤコブの場合を通してよくわかることは、時間の必要性と段階があること。
1ヤコブの悔い改めと改心。
2それから20年間自分で戦った。
3ヤボクの渡しで、朝まで自力で神と戦い続けた。
4夜が明けた時、ヤコブは戦うのをやめて神に縋りついた。
ヤコブの生涯における転換期、神に自分をささげる(献身)時が来た。
人間の性質を、神の性質に変えるのに時間がかかる。
人間の性質を堕落させるのにもサタンのようにするのにも時間がかかる。
ヤコブはヤボクの渡しで、20年前に神とベテルで約束したことを、20年間かけて自分の力でしようと努力してきたことに気づいた。
ようやく、ヤコブは、神に自分をゆだねることが勝利への道であることに気づいた。
ヤボクの渡しで、ヤコブは肩に手を感じた。そしてそれを敵と誤解し戦った。
神が私たちの所に来て、肩に手を置かれる時、敵ではなく友と認めることができれば素晴らしい。
私たちの最大の力は、自分の弱さを感じ取りそれを認める時です。
人類のあけぼの 飢え220,221ページより、EGホワイトの言葉
「ヤコブが自分の力をふるって獲得できなかったものを得たのは、自己降伏と堅い信仰によってであった。こうして彼は、彼の熱望した祝福を与え得るものは神の力と恵みだけであることを教えられた。
最後の時代においてもこれと同様である。
危機に直面し、絶望に陥る時、ただ、贖罪の功績だけに頼らなければならない。われわれは自力では何もできない。十字架につけられ復活された救い主の功績に頼らなければならない。そうするかぎり、だれひとり滅びることはない」
私たちの生涯でヤコブのような転換の時期(献身)がどんな形をとるかはわからないが、日々イエスとの信頼と交わりの関係を続けようとするならば、必ず、自力ではなく神に頼るようになる時が来る」
人類のあけぼの 上 219,220ページ より(彼という表現を私たちと書き換えました)
神の民も、悪との勢力との最後の闘いにおいて、ヤコブと同じ経験をするのであるが、・・・サタンは、私たちの罪は大きすぎて赦しを受けることはできないと思わせ恐怖に陥れようとする。自分たちの欠点を十分に知りその生涯を振り返ってみれば絶望的である。しかし、神の大きなあわれみと自分たちの真心からの悔い改めを思い出す。キリストによって与えられる神の約束を懇願する。私たちの祈りが直ちに聞かれなくても、くじけないで『私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』とヤコブのように心から言おう。
戦いがは激しく、敵は全力を尽くして、私たちを恐れさせ、失望させようとしますが、神の手がその時、私たちの肩に置かれるのです!
失望の淵にあって、肩に置かれた手は、敵ではない!
それは、私たちを救われる最良の友、神の手!
マラナ・タ
いつくしみふかき 友なるイエスは
罪とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまずのべて
などかは おろさぬ 負える重荷を
あなたの友・聖霊は、私たちをイエスのもとにいつも導いてくださる!