ごきげんよう! さわこです。
「あなたの友 聖霊」第4章は「聖霊と悔い改め」
・ 人間は生まれながらに宗教的な気持ちを持っていることを心理学者たちも発見している。
・ 人間は必ず「何か」を崇拝しないではいられない。この礼拝を求める要求は、心の空白から起きる。心の空白は神が作られたものである。
・ 聖霊が罪を示して、物や人や自分自身を、崇拝することが嫌になるまでは、本当に新しく生まれることはできない。
・ 聖霊が働くことで、人を悟りへと導き、筋道の通った選択をできるようにしてくださる。
◎ 聖霊の第一の働き・・・自分の必要を悟る
◎ 聖霊の第二の働き・・・悔い改め、すなわち新生の経験をする
私たちは第一の誕生は自分では選べない。
生まれる時代も国も親も、環境も、体格も、顔も、才能も、人種も・・・
しかし、第二の誕生は選択できる。
第二の誕生とは神様に立ち帰る決意。
キリストを信じる信仰の生涯。
ところが、イエスは第一の誕生もご自分で選ぶことができた!!!!!
イエスは父なる神と相談し熟慮の上、罪のこの世の中に救い主としてお生まれになることを選ばれた。!!!!!
私たちの第二の誕生は、聖霊の導きによってである。
聖霊によって、生まれることを決心できる。
イエスが、この世界に生まれるにあたり、聖霊によってマリアの胎内に宿られたように。
参照:エフェソ2:1-7より
(私たちは神の大いなる力によって生命を与えられて生かされている)
ヨハネ3:3-5より
(イエスは聖霊が新生をもたらすのだと)ニコデモに告げたが、強制はなさらなかった。イエスは悔い改めについて完全なお話をなさって、あとは聖霊のお働きにゆだねられた)
悔い改めとは、心の内に起きる変化である。
悔い改めとは、神から離れて生きていた人間が、神に立ち帰ることによって、神の意志と調和できるようになることである。
一度、改心したら、それを生涯の決心であるかのように思う人もいるが、改心は毎日のことである。
イエスは日々自分の十字架を負うように言われた。(ルカ9:23)
日々十字架を負うとは、毎日古い自己に死に、キリストにあって改心し続けることではないか?
改心とは、私たちの考えや態度が新しくなることである。魔術のようなものではない。
新生はいかにして起きるか?
聖霊の働きによって、神の言葉を通して起きる。
参照ペトロ第一1:23「あなたがたが、新たに生まれたのは、朽ちる種ではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言葉によったのである」
◎ キリストの犠牲は、すべての人に十分であるにもかかわらず、この世の人が全部救われるわけではない。受け入れなければ効力はないのである。
◎ 多くの人は、突然の改心と呼ぶが、それは神の御霊が長い間、その人を説得した結果、すなわち、長期間にわたる忍耐強い作用の結果である。
◎ 私たちは、他人を悔い改めさせることはできないが、イエスを示し、み言葉の真理を伝え、神の言葉が宣べ伝えられている場所(教会・家庭集会・修養会・講演会・音楽など)に誘うことにより、聖霊の働きに加わることができる。
マラナ・タ
恵みによる救い、無条件の救い、人類皆が救われることを神は望んでおられる。
それを強調するあまり、聖霊の働きに応答することが条件であることを
ぼやけさせて、あいまいにしてしまっていいものだろうか・・・
「あなたの友 聖霊」第4章は「聖霊と悔い改め」
・ 人間は生まれながらに宗教的な気持ちを持っていることを心理学者たちも発見している。
・ 人間は必ず「何か」を崇拝しないではいられない。この礼拝を求める要求は、心の空白から起きる。心の空白は神が作られたものである。
・ 聖霊が罪を示して、物や人や自分自身を、崇拝することが嫌になるまでは、本当に新しく生まれることはできない。
・ 聖霊が働くことで、人を悟りへと導き、筋道の通った選択をできるようにしてくださる。
◎ 聖霊の第一の働き・・・自分の必要を悟る
◎ 聖霊の第二の働き・・・悔い改め、すなわち新生の経験をする
私たちは第一の誕生は自分では選べない。
生まれる時代も国も親も、環境も、体格も、顔も、才能も、人種も・・・
しかし、第二の誕生は選択できる。
第二の誕生とは神様に立ち帰る決意。
キリストを信じる信仰の生涯。
ところが、イエスは第一の誕生もご自分で選ぶことができた!!!!!
イエスは父なる神と相談し熟慮の上、罪のこの世の中に救い主としてお生まれになることを選ばれた。!!!!!
私たちの第二の誕生は、聖霊の導きによってである。
聖霊によって、生まれることを決心できる。
イエスが、この世界に生まれるにあたり、聖霊によってマリアの胎内に宿られたように。
参照:エフェソ2:1-7より
(私たちは神の大いなる力によって生命を与えられて生かされている)
ヨハネ3:3-5より
(イエスは聖霊が新生をもたらすのだと)ニコデモに告げたが、強制はなさらなかった。イエスは悔い改めについて完全なお話をなさって、あとは聖霊のお働きにゆだねられた)
悔い改めとは、心の内に起きる変化である。
悔い改めとは、神から離れて生きていた人間が、神に立ち帰ることによって、神の意志と調和できるようになることである。
一度、改心したら、それを生涯の決心であるかのように思う人もいるが、改心は毎日のことである。
イエスは日々自分の十字架を負うように言われた。(ルカ9:23)
日々十字架を負うとは、毎日古い自己に死に、キリストにあって改心し続けることではないか?
改心とは、私たちの考えや態度が新しくなることである。魔術のようなものではない。
新生はいかにして起きるか?
聖霊の働きによって、神の言葉を通して起きる。
参照ペトロ第一1:23「あなたがたが、新たに生まれたのは、朽ちる種ではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言葉によったのである」
◎ キリストの犠牲は、すべての人に十分であるにもかかわらず、この世の人が全部救われるわけではない。受け入れなければ効力はないのである。
◎ 多くの人は、突然の改心と呼ぶが、それは神の御霊が長い間、その人を説得した結果、すなわち、長期間にわたる忍耐強い作用の結果である。
◎ 私たちは、他人を悔い改めさせることはできないが、イエスを示し、み言葉の真理を伝え、神の言葉が宣べ伝えられている場所(教会・家庭集会・修養会・講演会・音楽など)に誘うことにより、聖霊の働きに加わることができる。
マラナ・タ
恵みによる救い、無条件の救い、人類皆が救われることを神は望んでおられる。
それを強調するあまり、聖霊の働きに応答することが条件であることを
ぼやけさせて、あいまいにしてしまっていいものだろうか・・・