ごきげんよう! さわこです

 今朝の「朝祷会」は マタイ22:1-14から、メッセージをいただいた。
要点を箇条書きでまとめてみた

① 婚宴に招いていた人たちが来なかった。

② そこで王は怒って人殺しどもを滅ぼしその町を焼き払った。何と乱暴な…と思うかもしれないが、これは例え話であり、神の痛みと悲しみの表現である。

③ 招いておいた人(・・・イスラエルの民のこと)が来なかったということは、彼らの方が神に応えなかったということである。

④ そこで神は人間側の資格、状況は一切問わないで、善人も悪人も見かけた人は皆まねかれた。

⑤ ところが、礼服を着ていない人がいたということで、その人は放り出されたとある。つまり、無条件の救いのはずであるのに、一つだけ条件があったのである。

⑥ 救いの招きには条件はない。しかし、悔い改めて福音を信ぜよ。信じない者ではなく信じる者となれ、と聖書は教えている。

⑦ 悔い改めとは、道を変えること。方向転換すること。信じるとは神に頼るということ。つまり、神に頼ることが信仰の姿である。

⑧ 礼服の意味をパウロはこのように表している。ガラテヤ3:26-27「あなたがたは皆、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」

⑨ 洗礼を受けるという形によって、神に頼る生き方が見えるしるしとなる。それは、本人の努力や修行によるのではない。「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えないのです」(コリント第一12:3)とあるように、聖霊に動かされ感化されて告白できるし洗礼を受けられるのである。

⑩ 神の国の婚宴の参列者としてふさわしいものとは誰か、イエスを着ているものである。


・・・・以上がメッセージのまとめです。・・・・・・

私たち人類は皆、神から招かれている。皆、救いの対象である。犯罪者も、極悪非道の人間も、である。

立派な人、道徳的な人、世の中に貢献した人、親切な人、善意の人、誠実な人、情の深い人、自己犠牲を惜しまない人、いつも喜んでいる人、寛容な人、柔和な人、自分を律することのできる人、こうした人だから救われると言うのではない。

こうして書きながら、これって御霊の実ではないか(ガラテヤ5:22)と気づいた。

御霊の実を結んでいるかどうかで救いが決まるのか? 

御霊の実は、キリストを着た人が、霊の導きに従って生きていく結果としていつの間にか結ぶものなのである。
悔い改めてキリストに結ばれて生きる結果なのである。

悔い改めを拒否したり、口先だけで悔い改めを装ったり、このような場合はキリストを着たとは言えない。
聖霊に導かれているかどうかは、どうやってだれが判断する?

・・・・想像の翼を広げて、出てきそうな意見を並べてみよう。・・・・

「あの方は、信用できません」とAさん。

「人の心の中は誰にもわかりません」とBさん。

「人を疑うのは罪です」とCさん。

「騙されたっていいじゃありませんか。それで、あの人の信仰が後からついてくるのなら」とDさん。

「では、教会が荒らされる結果になったらどうしますか」とEさん。

「喜んで犠牲になりましょう。主はよろこばれます」とFさん。

「あなたは犠牲になってもいいでしょうが、例えば子供が犠牲になったらどうなりますか」とGさん。

「神様を信頼していれば、万事は益となりますよ」とHさん。

「思い煩いは罪ですよ」とIさん。

「あの方は×××をしています」Jさん

「人の欠点をあげつらうなんてクリスチャンのすることではありません。良いところを見つけてあげるのです」Kさん。

「神様は人を変えるお方です」Lさん。

「あの方の悔い改めは信用できません」Mさん。

「蛇のように賢くあれですよ」Nさん。

「鳩のように素直であれ、とも言いますよ」とOさん。

「互いに愛し合いなさい、ですよ」Pさん。

こうして話し合いは堂々巡り。

それぞれの信仰に基づいて、それぞれの根拠とする聖句に基づいて、それぞれの祈りの結果として、以上のような発言は出てくるだろう。

想像力は人一倍!の私の中で、こうしたたくさんの声が聞こえてしまう。
私って多重人格か?(笑)

純粋に純粋に、神の霊によって、私の内の霊に語り掛けてくださる神様の御声を聴き分けたい。


マラナ・タ

「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。
同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。・・・そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。・・・自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません・・・」
                        コリント第一2:11-14