ごきげんよう! さわこです

安息日学校、小学上級生さわこクラスの共通テーマ聖句は、
マタイ6:33
「何よりもまず神の国と神の義を求めよ」
とした。
この御言葉をベースとして、子どもたち各自のテーマ聖句を掲げてもらうことにした。

まいちゃんは、マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいとおもうことは何でも、あなたがたもひとにしなさい」
はなちゃんは、箴言20:11「子供も行いが清くただしいかどうか、行動によって示す」
かいとくんは、マタイ8:5-13の百人隊長の信仰を選んだ。


そして、私は・・・
イザヤ11:2
「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」


この聖句から、祈りを頂いたのだ。
いかに私は「知恵と識別、思慮と勇気」が不足して、人を傷つけ、失礼を重ねてきたことだろうか。
それに強く気づかされるようになってきたのだ。

主が私に「気づきの霊」を注いでくださったことに深く感謝して、主を讃美した。

しかし、気づくということは、心が痛むのだ。
魂が悲鳴をあげるのだ。
ため息が出てくるたびに「申し訳ありません・・・ごめんなさい・・・私が不快感を与えてしまった人の心に平安を与えてください。」と祈っても、苦しさは離れない。


聖句日めくりカレンダーで、この聖句に出会った朝、このような状態の時には、何をどう祈るべきか、ようやくわかったのだ。

「主よ、あなたの霊が、私の上にとどまりますように。
主よ、あなたからの知恵と識別の霊を、注いでください。
主よ、あなたからの思慮と勇気の霊を、注いでください。
主を知り、主を畏れ敬う霊を、私は願い求めます」

こう祈ることによって、心に迫ってくる不安を押しやることが少しできた。
神様は、なんと素晴らしい祈りをくださったことだろう。

知恵、識別、思慮、勇気が、徹底的に不足している私です。
その結果が私の愛が伝わらない。誤解を招く。タイミングがずれる。

どれほど、心を尽くしても、人間の愛は、そもそも不完全であるし不十分なのだ。


ずいぶん昔のこと、当時の牧師に「わたしは・・・愛が足りないのです・・・」と言ったことがある。

「さわこさん、あなたに足りないのは、愛ではありません。知恵ですよ」
と言って頂いたことを思いだした。

その牧師は、私よりもずいぶんと若く、小さな女の子の父親であった。
私たちの教会には二年しか在籍しなかったのだけれど、その牧師からは、どれほど大きな豊かなイエス様の愛を教えていただいたことだろう。

人間の愛は、不完全であっても完全なのだ。
種が芽吹き、双葉が出る。
花がまだ咲いていなくても、実を結んでいなくても、それぞれ成長の段階で、それはそれで完全なのだ。
それと同じなのだ。
自分の愛の不足を嘆いてもどうにもならぬ。
その時、自分のできるせいいっぱいの愛を差し出しても、十分ではないのは、あたりまえなのだ。
神様の愛とは比較にならないのはあたりまえ!


愛は、知恵の、識別の、思慮深さの、勇気の包装紙で包まれてこそ伝わるのだ。

この祈りは、今年一年間だけではなく、きっと一生涯の祈りとなることだろう。

祈りは、神様から賜るものだと心から思う。

マラナ・タ
不安で、押しつぶされそうになるとき、
私は、日に何度も、この祈りを祈ります。