ごきげんよう! さわこです

第6回目の朝祷会での司祭さんによるメッセージはマタイ25:1-13でした。
ここはその教会の教会暦の箇所であるといいます。
賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの、イエス様の例え話です。

「教会暦の終わりに、クリスマスを迎えるにあたって、読まれるにふさわしい箇所でありますが、この箇所はみなさん、馴染みはありますか」と言われたのですが・・・


私たちの教会では、馴染みがあります!
25年の信仰生活で、何度、そのメッセージを聞いたことでしょうか。

私にとっては、受け身として聞くだけでなく、この箇所については、主体的に読み込まないではいられないほどの熱意があふれてきます。

「主よ、教えてください。主よ、お語りください。この10人のおとめの例え話であなた様は私たちに何を一番に伝えようとしていらっしゃるのですか」
そういう御言葉への飢え渇きがあふれてくる箇所なのです。


司祭さんは、
「二種類のおとめの違いは、油の有無であります。その油とは『信仰』です。
主イエスを待ち望む心そのものが油なのです」と言われました。


私たちの教会では「油」とは「聖霊」であると学んできましたから、
教会によって、与えられる光の色が微妙に異なっているのだなあ、これが超教派の祈祷会ならではの魅力であり、面白味であるのだなあ、と思いながら、耳を澄ましました。

「待ち望むのは信仰生活によって、はぐくまれるもので、自分でしか育てられないものです。人から譲渡されるものではありません。愚かな5人のおとめは、自分の信仰を他から調達しようする精神であり、油を買って来るとは、まるでコンビニで調達しようということのようでありますね。
さて、灯の油は、どこでもらうのでしょうか」
という問いかけの後、黙想会の話をしてくださった。

「修道院のブラザーやシスターは読み書きもできない無学な一般信徒たちです。聖職者はファーザーと呼ばれます。アルフォンスという無学なブラザーが修道院で受付番をいつもしていました。彼の笑顔に多くの信者が癒されて人気が絶大でした。面白くないのは修道院長や聖職者たち。そこで、アルフォンスを陥れようと、礼拝説教をするようにと命じます。この当時のカトリック修道院の説教は、ラテン語で話さなくてはなりません。無学な彼はラテン語など知らないのです。しかし、彼はにっこりと笑って承諾し、キリエエレイソン、主よあわれみたまえという意味のラテン語で、繰り返し繰り返し祈ったのでした。それが彼の説教でした。」


さて、この箇所、十人のおとめについては、思い出があります。
9月16日に「日常」のところでアップしてありますが、もう一度載せたいと思います。

10年以上たっても、その日その時の会話の場面が思い出されるのです。信仰の友との会話、そして、彼女の疑問に対して書かずにはいられなかったのでした。
そして、彼女のPCに添付して送ったのでした。

マラナ・タ
   つづきます