ごきげんよう! さわこです。

11月11日の火曜日からは、聖書通読の新約はペテロ第一の手紙になった。

ペテロが、この手紙を書いたのは、おそらくローマで、そして死を間近に控えた頃。
紀元60年代のローマ皇帝ネロの迫害のころであった。

この手紙は「ポント、ガラテヤ、カパドキア、アジア、およびピテニアに離散し、寄留している人たち」に向けて書かれている。
これらの地域は、小アジアと呼ばれるところ。

そこで、私は世界地図を取り出してみる。
要するに、今のトルコの地中海と黒海にはさまれた地域なのね、と確認して納得。

当時、これらの地域の信者の大多数は異邦人で、ユダヤ系クリスチャンは少数だった。
ペテロの手紙は迫害の危機迫る火のような悩みの切迫した時代の注意報であった。

この地域は、今ではイスラム圏ではないのか?
幾多の迫害をくぐり抜けたキリスト教は、アブラハムのもう一人の子イシマエルの子孫から出てきたイスラム教にとって代わられた地域もあるのだ。
共にアブラハムを父祖とし、旧約聖書を信じているユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
決して仲が良いとは言えない。聖書の民たちがいがみ合い戦い合っている。
終わりの時代の形相そのままなのだ。
(マタイによる福音書24章ほか参照)

「キリストは天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終わりの時代に至って、あなた方のために現れたのである」ペテロ第一1:20

・ キリスト様はこの天地創造の前にすでに存在された。
・ キリスト様がこの地上に人(イエスという名で)としてお生まれなさったのは終わりの時代である。
終わりの時代とは、最近のことではなく数百年前のことではなく、イエス様が初臨なさったその時からが終わりの時代なのだ。
・ そしてイエス・キリスト様がおいでくださったのは「わたしたちのため」である。


「・・・あなた方は、この世の旅人であり、寄留者であるから・・・」ペテロ第一2:11


・ 私たちはどういう存在かが記されている。この世の旅人、この世での寄留者。
だから、この世では生きづらいことが多くあるがそのはずなのだと納得してしまう。


「異邦人の中にあって立派な行いをしなさい。そうすれば、彼らは悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派なわざをみて、かえっておとずれの日に神をあがめることになろう」ペテロ第一2:12

・そうなのだ。主にあって立派な行いを持って生きる者は「迷う魂を救いに導く」神の通路となるのだ。

・ そうなのだ。特にあれこれ大きなことをしなくても、置かれたところで、植えられたところで、神様に忠実に誠実に生きていくことが、神様のみこころに適うことなのだ。


「僕たる者よ、心からのおそれを持って、主に仕えなさい。善良で寛容な主人だけでなく、気難しい主人にもそうしなさい」ペテロ第一2:18

・ 私たちの周りには、善良で寛容な人ばかりではない。実に気難しい人も多くいるのだ。他の人には気難しくはなくても、私個人に向けて「気難しく当たる」人が存在する。
それを今の時世の用語をもちいるならば、モラルハラスメント「モラハラ」となるのかもしれない。
泣き寝入りして言われるままになっておれというおススメではない。
心からのおそれをもって主に仕えているならば、そういう気難しい人への対応策としての知恵を神が与えてくれるはずだ、と私は信じている。
私の皮袋にはいっぱいの涙が溜まっている。
私は嘆きの祈りをもって、神様に涙しかおささげできないこともあった。


「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて、苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」2:19とペテロは書き進める。
さらに「・・・善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ、神によみせられることである」口語訳2:20
(よみせられる・・・よしとされる意)


「・・・わたしたちが罪に死に、義に生きるために十字架にかかられて、私たちの罪をご自分に負われた。その傷によってあなたがたは癒されたからである」2:24

神から迷いだしてしまった人類が、再び神のもとに立ち帰ることができるように、神御自らがそなえてくださったのが、神の独り子、イエス・キリストの身代わりの十字架の死であった。

私が、他の宗教ではなく、キリスト様をわが主とあがめるキリスト教にすがっている根拠はここにある。

マラナ・タ
安息日に入りました。
主の救いを感謝し、あなたの癒しにやすらぎます。