ごきげんよう! さわこです

「信仰に生き抜いた人」ジョージ・ミュラーその生涯と事業
A・T・ピアソン  いのちのことば社

12年ぶりに手元に帰ってきたこの本。
「2002年8月15日―20日」の書き込みがあった。
1964年の初版発行、1986年には新装発行
1999年には新装3刷である。
全365頁の二段組み、厚さは23ミリ。

赤青緑の三色ボールペンと黄色の蛍光ペンで、線が引かれた上に、何か所かに書き込みもある。
なんと熱心な読者であることよ(笑)
勿論、すべてさわこ自身の仕業である(笑)

ジョージ・ミュラーをご存知だろうか?

一部のクリスチャンと児童関係の社会福祉に携わるものならば知っているだろうと思う。
彼は1805年に生まれ1898年没であるから92歳の長命の生涯であった。
200年以上も前に生まれた人である。

私の机には世界史・日本史の年表がある。
何かがあるたびに、いつ頃の出来事?この頃、日本はどうだった?
との疑問に対応するためである。


日本は江戸時代であった。浮世絵師喜多川歌麿の亡くなった年が1805年である。
江戸時代後期、文化文政年間(1804-1830)徳川家斉が将軍であった時代で幕藩体制の動揺期にあたる。
町人文化が栄え、表面的には平穏で江戸を中心に享楽的な風潮がみなぎっていた。

イギリスはインドを掌握し、東アジアに英露が進出していた。
蝦夷の地にはロシアの軍艦が、琉球にはイギリスの軍艦が来ていた。
アジアはヨーロッパの国々に植民地化されていった時代であった。
そして、明治維新が1863年である。
ミュラーは江戸時代の後半から明治時代の大半の時代を生きた人であったということを頭において私は彼の伝記を読む下準備をしたのである。

ジョージ・ミュラーはプロシア生まれ。
イギリスで活躍した孤児院経営者、宗教家、説教家である。
私が彼の名を知ったのは、多分礼拝説教の中ではなかっただろうか。
あるいは信仰書の中で引用されていたのかもしれない。
そこで「祈りの秘訣」などの本を読み、それだけでは飽き足らず、ミュラーのことをもっと知りたくて彼の伝記「信仰に生き抜いた人」を読むに至ったのだ。

「どんなことがあっても、神にしか頼らない。人には頼らない。ただ、ひたすら祈り、神を信頼しきる」という彼の宗教信条に大きな衝撃を受けたのだった。

いったいどのような家庭環境で育ったのだろう。
家庭が良くても、人はその時代性に左右されもする。

人本主義、自由主義という社会思想は、多くの有識者をも神への信仰から引き離していった。

キリスト教国において、教会やキリスト教は、ヨーロッパ諸国の文化として、政治的枠組みの中に根を下ろし、人々を抑え込んでいた。
中世ヨーロッパでは、ローマカトリックが、政治を支配した。
政治と宗教が分離されないことの悪例であった。

宗教改革以降、ローマカトリックは力を失ったが、プロテスタント国家においても、キリスト教は国家宗教として牧師や司祭たちは一つの職業であった。
キリスト教が国教であれば、国家公務員となるわけである。
社会的に安定し、高給の約束された職種である。
どのような気高い信仰を持っているかとは無関係に社会的評価の高い職種であった。
こうしてキリスト信仰の質は低下していく。
そこに新しい学問や思想が食い込んでいく。

ミュラーの生きた時代、 19世紀ヨーロッパは、人本主義哲学(ヒューマニズム)と自由主義的社会の雰囲気の中で「神は必要ない」と言う考えが広がっていた。

ミュラーはこうした不信仰を目撃し 「神様は過去と今日、今も働いていらっしゃる」証明するためにブリストルの小さな村エシュルリダウンに孤児院を設立したのだった。
そこでイギリスを超えて全世界に福音の種子を撒き、初教派共同体運動である ‘兄弟団’を設立して教会改革の原型を提示したのである。

ミュラーは日本にも来ていたのです。知っていましたか?


新島襄に招聘され同志社で講演をするなどして、山室軍平などに多大な影響を及ぼし、また、孤児事業のパイオニアとなった石井十次の岡山孤児院のモデルとなり、石井の思想に決定的な影響を与えたのである。

ミューラーの孤児院開設の第一の理由であり目的は

『神が今もなお忠実であられ、
 今もなお祈りを聞いて下さる方であることを悟って、
 神があがめられること』
 でありました。

こうしたひたすら一途に神に信頼する彼の祈りは確信に満ち力があった。
彼が祈ったことを全く知らなかった人々から神様の答えが来て、エシュルリの孤児たちは、一食たりともも飢えなかったのだ。
神様だけに頼る人の勝利を直接見せることに成功したのだ。
ミュラーの信仰に大きい感銘を受けた人の中には、ハドソンテーラーがいた。
ハドソンテーラーもただ祈りによって神様だけに頼る信仰で中国宣教の偉功を果たしのだった。

さて、彼の家庭環境を知り、かれの幼少時代、少年時代、青年時代を知るに至って、唖然としてしまった。

父親の偏愛を受け、正しい家庭教育、訓練を何一つ受けなかったのだ。
そのために混乱した大変な青少年期を送ったミュラーは、嘘、盗み、詐欺、賭博で何回も刑務所を出入りした。
母が死の床にあった14歳の時には酒に酔って、街中をよろめきながら歩いていたのである。
母の死さえも彼の堕落、放蕩を引き留めることが出来ず、眠っている良心を目覚めさせることもできなかったのである。
彼にとっての宗教教育は単なる形式的なものに過ぎず、良心はさらに無感覚になって行ったのである。

1825年11月中旬のある土曜日の午後、ミュラーは友人がある家庭集会に参加するという話を聞く。
そこでは、数人の信者が集まって讃美歌を歌い、祈り、み言葉を読み、印刷された説教を読んでいた。
ミュラーは、その時すぐに、何かしら行ってみたい気持ちにかられたのである。

友人は不道徳な快楽のみを求めているミュラーが、そのような集会に出ても場違いなだけであると考えてよい返事をしなかったのである。

しかし、その集会に参加したことが、彼を変えるきっかけとなった
そこで、彼は一生忘れることのない印象を受けた。
彼は21歳になっていたが、人がひざまずいて祈る姿を見たのは、これがはじめてだったのである。
この集会は、最も原始キリスト教的で使徒的な形の素朴な聖書的な集まりであったのである。
使徒言行録に出てくるような原始キリスト教会としての家の教会そのままであったのである。

その夜、彼は床についてから、今まで一度も味わうことのなかった心の平安と静けさに包まれたのであった。

神に無関心で、悪行と不道徳の限りを尽くして生きていた若い罪びとを、神様は、見棄てることなくあわれみを注いでくださり、罪の世界から引き上げてくださったのであった。

私はここに、人が回心に導かれるヒントを見出した。

私たちキリスト者が形式的な信仰生活に明け暮れていては、自分の魂はおろか、失われた迷える魂を救うことはできないということである。
行事やイベントで、人の心をつかもうとあくせくする伝道の力のなさを思ったのである。
時代に適応した社交で、教会に人を集める方法は、その場しのぎであると思ったのである。
それを否定するのではないが、企画計画する信徒たちの日頃の神様との深い交わり、真実の礼拝が先ずなされていることがいかに大切であるかをしみじみ思ったのである。

マラナ・タ
主よ、私にもミュラーのような、完全にあなたに信頼する信仰を与えてください。
母としての無力さゆえに、どんなに悲しく思ってきたことでしょう。
しかし、主よ、あなたの憐れみの大きさに、私はもっともっと大胆にあなた様を信頼すべきであるのです。
私はミュラーのようなキリスト者にはとてもなれないと恐れおののいています。
しかし、使徒時代の家の教会に集う者のような信仰者としての歩みを積み上げていくことならば出来そうです。
主よ、どうぞお導きください。