ごきげんよう! さわこです

二年余り前に読んだ森有正氏の「いかに生きるか」
講談社現代新書101頁の「生きる道としての『もののあはれ』」の章にいたく感動したのです。
どこに感動したかと言えば「まるで本居宣長は江戸時代のパウロではないか?」と思ったこと、もう一つは、宣長の「もののあはれ」と神様の「あわれみ」を重ねて考えたことであります。

その記憶が薄れないうちにまとめておきたいと思っていました。
どこかに提出するレポートというわけでもありませんから、完成された内容ではありませんが、忘れないための覚書としてだらだら書いてしまった読書感想文の下書きにすぎませんが、どなたかとこの感動を分かち合いたくて・・・という次第です。

森有正氏は「日本人の思想、日本人の考え、日本人のメンタリティの中から日本の社会を組織する力はでてこないのか」と問いかけます。

そして、本居宣長が日本人として初めて自分自身の考え方、経験に基づいて生きていく道を組織しようとした人であると森有正氏は言うのです。

江戸時代には儒教(その中の朱子学)が特に人間の倫理的な模範として重んぜられていましたが、本居宣長は、儒教の道というのは賢人が賢人でない人を支配し導いていく(先皇の道)システムであり、そこには一種の特権思想というものがあると考えるのです。

しかし、宣長はすべての人を導いていく先皇の道ではなく、一人の人間の道を求めるのだというのです。

彼は自分自身を、仏教で言えば「一人の凡夫」、儒教で言えば「一人の小人」ととらえて、自分は愚かな弱い勇気のないわがままな人間に過ぎないので、先皇の道を歩むなんてことはとてもできないと考えたのです。

そうした自覚に従って、宣長の見いだした自分にふさわしい道とは、和歌や源氏物語の中に表れた「もののあはれ」という道であるというわけです。

「もののあはれ」とは人間のほんとうの自然の姿であり、私たちは「もののあはれ」を感じながら生きていかなくてはならないと考えたのです。

人間とは元来、女々しいもので、弱いもので、女子供のようなものである。
偉そうなことを言っても、内心ではびくびくしている。
表面では成人君主のようなことを言っても、内心では、いろいろと悪いことを考えている凡人愚夫に過ぎない。
そのことをしっかり認めよ、受け入れよ、徹せよ。
そこにこそ、人間が安らかに生きていく道があるのだという明確な自覚です。

宣長の考える「もののあはれ」とは、自然と人間が、人間と人間とが、お互いに共感し合い、浸透し合って、互いの感情を一つにして生きることだと、sympathyだというのです。

相手そのものの中に入って考えることが「もののあはれ」の根本的基調になっています。
人間とは存在としてお互いに浸透し合って生きている、そうしなければ生きていけないものだという考え方なのです。

こうした宣長の姿を見ていて、私はまるでパウロの叫びのように思ったのでした。
ローマ書の1ページを読んでいるのではないか、と思ったのでした。
「もののあはれ」とはイエス様と人間の関係のように思えたのでした。

宣長が旧約新約そろった聖書を読んでいたならば、神様の深い御愛に圧倒されたことだろうとしみじみ思ったのでした。

人間は神様にあわれみを求めます。
そして神様は人間をあわれんでくださいます。

らい病を患っている病人が「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言います。ルカ17:13

盲人も「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と願います。ルカ18:38

善きサマリヤ人の例え話の中にも、おいはぎに襲われて半殺しに会った人を見て、通りかかったサマリヤ人は「・・・その人を見て憐れに思い・・・介抱した」と出てきます。このサマリヤ人は神様を現しています。ルカ10:25―37章

徴税人の「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」ルカ18:13の祈りも有名です。

人間は神様の憐れみの中で生かされているのです。

私の教会には90歳の長老さんがいますが、現役で仕事をしておられます。
長老職を引き受けてくださって、礼拝や集会の司会、聖書教師もしておられます。
最近まで、複式簿記での教会会計もされておりました。パソコンを自在に使いこなされるのです。

その方が教区の長老会に出席されるにあたって、ご高齢ということもあって、ご家族も教会も心配なさり、私がお伴をしたのですが、道中、長老さんと沢山のお話ができました。

「私がこんな高齢になっても、神様の御用をさせていただけるのは、ただただ神様の憐れみによるのですよ」とおっしゃった言葉が忘れられません。

一般に言う「もののあわれと」は、宣長が考えていたものとは少し違います。

人間というものはどんなに長生きしても百年生きる人は少ないのです。
ところが自然は春夏秋冬を何千年も前から繰り返しているのです。

地球上では四季のない地域もありますが、日本という国は、春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、一年が終わるとまた春が繰り返されます。

今年も咲く花は万葉集の時代にも咲いていたに違いありません。
鳥もまた、さえずる時期が来れば、昔と同じようにさえずる。

ところが、人間の方はたえず変わります。
桜を一緒に見たおばあさんは、次の年にはもう死んでしまったかもしれません。
あるいは桜の木の下で語り合った恋人とは別れてしまったかもしれません。

そういう時、その桜を見て人間は「もののあはれ」を感じてしまうのです。

自然は繰り返される、自然は帰ってくる。
しかし、人はそうではないことが起きる。
永遠に続くかのごとき自然を前にすると、人間のはかなさが明らかにされてしまうのです。

しかし、昨今の地球の異常気象、天変地異、化学物質による汚染等々・・・破壊されていく自然を思うと自然は永遠であるとも言えなくなってきます。

去年、一緒に見た桜が、その場所に行くと無くなっていた。
一緒に見たふたりは去年よりもつながりが深くなっている。
しかし、二人が来年の今、一緒にいるという保証もないのです。

人間も自然も、被造物のすべては、なんとはかないものでしょう。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」なのですよね。
すべてのものは常では無い。無常なのですよ。
「もののあはれ」は「無常ということ」でもありますね。

永遠に変わらないのは、神様だけなのです。
その永遠に変わらないお方が、はかない存在の私たちと共にいてくださり、
永遠の命を恵みによって与えてくださる。

私の心のうちに来てくださいと願いさえすれば、喜んで来てくださる。
私たちの内に住んでくださる。
私たちの思いのすべてを知っていてくださる。
信じる者と一つになって生きて行ってくださる。

インマニエルの(主、我らとともにいます)神様なのです。

四国八十八か所霊場巡りは「同行二人」で御大師様(空海さん)と一緒だと言われます。
本当はインマニエルの神様と一緒だということなのですよね。

私たちを創造された神様の方からsympathyをもって手を差し伸べてくださっているのです。
なんと私たちは愛されている者でしょうか!

マラナ・タ
ただただ、私たちの神様に讃美を感謝をおささげします。
主、主、恵みあり、憐れみあり、いつくしみはとこしえに!