禅僧が教える

心がラクになる生き方

南 直哉

 

 

 

 

曹洞宗の開祖 (永平寺の開祖) 道元の言葉に

救われることがあります

 

道元の坐禅は

「只管打坐(しかんたざ)」といい

わたし的な理解ですが

「ただ ひたすらに坐る」というとです

 

ただ座すことに意味があるのか?

と問われるとそれまでですが

 

よく 子供たちに

「学校に行く意味があるのか?」

と聞かれることと似ていますが

 

そこに意味はなくとも

自然ということで学校で学ぶということがあるのかもしれません

 

道元の只管打坐には

 

「それに成りきること」

の理解があります

 

わたしは坐禅愛好家ですが

折に触れて禅寺で 見よう見まねかもしれませんが

雑念を追い払いたく

集中力を高めるために座る時があります

 

まさに 9月議会中

来週は 一般質問を迎える中

余計な雑念という肉付けをそぎ落としたい今日この頃

 

坐禅をすると

背筋を伸ばし体が真っ直ぐになる

その姿がリンクし

心が真っ直ぐになる。

が真っ直ぐになれば

思うことが真っ直ぐになる

「形は心をつくる」ということになります

 

それと同時に

「自分が」に固執しないことを教えてくれる

 

苦しいのは重いから

重いものを捨てると軽くなるではないですか

 

一般質問するわたしにとって重いのは足かせ

こんな時だから禅語は必要ですので

時折 禅語の本を手に取る

 

多くの人が「取引」と「競争」の中で生き、

疲れ切っているように思います。

自分を高め、人に勝って得をし、

「役立つ自分」や「すごい自分」でいなければと思い込み、

疲弊しているのです

@本書より

 

役に立つ すごい自分でなくてもいい

自然体でいることを改めて学ぶ

 

なぜか。。。

「〇〇でなければならない」

は重いから

 

重いから前に進めないものです

 

時に 心のそぎ落としは必要

 

 

意味を考えず

ただひたすらに質問 問いかけをするのみだと

わたしは考えます

 

 

そう思うと

「〇〇であるべき」

っていうフレーズは重いな。。。