女ぎらい

ニッポンのミソジニー

上野千鶴子

 

 

 

ミソジニーとは

「女性嫌悪」や「女性蔑視」

のことを言いますが

 

男性側からいうと 女性軽視

女性側からいうと 自己嫌悪

とも言えますでしょうか

 

タイトルが面白くて手にとってみました

 

世間を揺るがす

事務次官セクハラ問題ですが

 

「セクハラ罪という罪はない」

という大臣の発言は セカンドレイプに近いなと

感じるんですよね

 

所謂 この発言は 女性軽視であり

これを聞いた女性は 自己嫌悪に陥る

すなわち ミソジニーの典型

 

傷つく方が悪いのでしょうか?

 

「それくらいで セクハラと騒がれるのは迷惑だ」

とでも言いたいのでしょうか

 

女性が不快に感じたことは

すでに「セクハラ」です

 

長年 女性は社会において不快に感じたことを

黙って耐えている経験があったと思う

 

わたしも子供の頃 痴漢にあったとき

自分が女だからこんな目に合うんだと思い

汚れた 汚い自分だから 誰にも言えないと

親にもその報告ができませんでした

 

これが ミソジニー 女であるという自己嫌悪

 

それを放置しているので

 

男性側の ミソジニー女性軽視があるのかもしれません

 

「セクハラ罪という罪はない」

と仰いますが・・・

 

内閣府では

すべての女性が輝く社会づくり の推進してますね

 

すべての女性が輝く社会づくり/内閣府

↑詳しくはコチラ

 

女性が働きやすい社会づくりに向けた妊娠や出産支援の強化

雇用環境の整備などを盛り込んだ「政策パッケージ」

というのを掲げていますが

 

今だに 現実起きているのが

このありさまです

 

いつも 思うのですが

「形」を作るだけではなく

そこに どんな「思い」があるんですか?

と思うんですね

 

制度を作ればいいんだろ

という 上から目線にしか見えないのは

わたしだけだろうか

 

罪がなければ それでいいのかー!!( ;∀;)

 

またこれで

傷つく 自己嫌悪に陥る女性が

出てくるんですよ

 

「やっぱりね わたしたちの見方してくれないんだ」

 

本書では

ミソジニーの理論装置について記されています

 

・・・・・・・・・・・・・

 

男は女との対関係の中で

「男になる」のだ、と思っていた。

まちがいだった。

男は男たちの集団に同一化することをつうじて「男になる」。

 

男を「男にする」のは、他の男たちであり、

男が「男になった」ことを承認するのも、

他の男たちである。

女はせいぜい、男が「男になる」ための手段、

または「男になった」証明として

与えられたりついてきたりする報酬に過ぎない。

 

これに対して、女を「女にする」のは男であり、

「女になった」

ことを証明するのも男である。

@本書より

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

読んでいる わたしは女性ですので

もちろん 自己嫌悪に陥りました

 

そして 気づいた!

 

どうせ わたしなんて・・・

もう無理だわ

なんて思うことあるんですが

 

泣き寝入りは もうよしましょう

 

人間を堕落に導くもっとも大きな悪魔は、

自分自身を嫌う心である。

@ゲーテ

 

「女ぎらい」

という タイトルの本ですが

 

女を嫌っているのは

何よりも女性である自分であること

 

女性であることを喜びに感じ

女性であることに自信を持てたならば

もしかしたら 社会は変わるかもしれません

 

制度をいくら作っても

このありさまなのが よくわかったと思います

 

女性が輝く社会というのは

やはり 女性が作らなくてはならない!

 

そのためには?!

制度やルールじゃないですよ!

 

わたしたち 女性が一人一人

声を上げ続けることだと思う

 
役所に対して品位を傷つけたとか・・・
 
役所の品格を傷つけただけでなく
女性の心も傷つけていますよ

だって わたし これで自己嫌悪に陥りました!!

 

自信をもって!

自己嫌悪になってます!

 

と自己主張

 

ある男性からの言動に対して

今までだったら 黙ってましたが

先日

「それ 傷つきました」

と正直に直接ご本人にお伝えしました

 

(傷ついた自分に自信を持ちましたので)

 

傷ついたと言われると

どなたでも 足を止めるのではないでしょうか

 

傷ついたなら

傷ついたと言ってもいいと思います

 

それが私たち女性ができる

一手なのかもしれません