【幕末維新ゆかりの地めぐり】

 

下関市内だけで幕末維新ヒストリはたくさんあります。

たくさんあり過ぎて一日で網羅することはほぼ不可能ではないか、と。

選択と集中、さるるとしてはやはり

坂本龍馬系の歴史ヒストリアは外せませぬ。

 

坂本龍馬が愛した妻

おりょう

 

この写真がおりょう本人かどうか真偽を疑う諸説がありますが

下関市はこの写真をおりょうとして使用しています。

うーん、なんか・・・・こう・・・・もっと美人なイメージしてたんやけどな?

いや女性を美醜で判断するような男ではないで!?

 

過去に記事にしたように(山口県:下関市【竜馬とおりょうの最後の住処】

おりょうはこの下関市で自由奔放に生活していました。

巌流島に上陸して花火を打ち上げたり

鉄砲をぶっ放したりと当時の女性では考えられなかったでしょうね。

 

大河ドラマ【龍馬伝】でも

おりょうが拳銃を撃つシーンがありましたが

 

おりょうが鉄砲を撃っていた場所がここ!

【桜山神社】

 

奇兵隊の名もなきメンバーが祀られています。

 

 

坂本龍馬の死後、下関に滞在していたお龍は

桜山招魂社(招魂場)運営のために設けられた「あけぼの」という茶屋で

橙の実を短銃で撃ったり

一晩中飲み明かしたりして過ごしたといいます。

おりょうはけっこう嫌われてたみたい

海援隊関係者からはこんなお話もあるそうです。

 

龍馬はぞっこん惚れこんでいたが、(海援隊の)同志たちは嫌っていた。

生意気で龍馬を傘にきて同志たちを下風に見たがっていた。

 

さらに

 

有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。

善悪ともに兼ぬるように思われたり

 

なんせ

美人かもしれんけど賢いとは知らんで

良いも悪いも両面はあるやろうけど?みたいな感じかな。

なんせ坂本龍馬の死後、嫌われてるから海援隊は面倒を見てくれへんし

三吉慎蔵に坂本龍馬の実家に送ってもらっても

家事にはほとんど参加せず、マイペースに生活していたそうです。

 

 

土佐での生活も3ヶ月で終焉を迎えます。

結局は龍馬のお姉ちゃんと折り合いが合わず

諸説ありますがむしろお姉ちゃんとは仲が良くてお兄ちゃんと仲が悪かったとか?

明治政府からもらった報奨金を取り上げられた?とかいろいろな説があるそうです。

土佐を出たおりょうは京都の寺田屋のお登勢さんを頼り

坂本龍馬の墓のそばで暮らしていたそうですがやがて東京へ・・・・。

西郷隆盛を頼りにしようとしましたが当時、征韓論で下野する西郷隆盛に

おりょうに一時金を与えるだけがせいいっぱいでした。

 

その後、再婚し西村ツルと名乗ります。

横須賀の料亭で働きます。

明治30年、貧乏長屋でアルコール中毒になっていた西村ツル(おりょう)

酔って夫に「坂本龍馬の妻だ!」と吐き捨て

愛想の尽きた夫はおりょうの妹とデキてしまい、おりょうを捨てて出ていきます。

その後、海軍工廠御用商人と同棲するもやっぱり「坂本龍馬好き!」発言が多く

当たり前やけど不仲になって結局は同棲は解消となります。

 

坂本龍馬が好き過ぎたんかな

坂本龍馬がいい男過ぎたんやろうかな

 

日露戦争の始まった年

ひっそりと亡くなったそうです。

 

 

おりょうの墓は横須賀市大津の信楽寺にあるそうです。

いつか行ってみたいなあ・・・・。

お龍の死の8年後の大正3年に田中光顕や香川敬三の援助を受けて

妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となり・・・・

あれ?光枝と松兵衛はデキておりょうを捨てて出て行ったんやん?

なのに【中沢光枝】ってことは結局、松兵衛と結婚してなかったんやな!?

そんな2人がおりょうの墓を建てるのに奔走したんか・・・・ふむ、おもしろい。

ちなみに墓碑には夫だった西村松兵衛の名ではなく

「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているのも歴史ヒストリアの醍醐味。

(西村松兵衛はこの半年後に70歳で死去したそうです。)

 

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