澤田事務所管理人が更新します。

 

 

この「連載プレイバック」は

1982年7月8日から1989年9月28日まで

雑誌「スコラ」に掲載された

笑人間を加筆訂正したものです。

 

 

 

本日は1985年5月23日 笑人間

「ゆーとぴあ」(#42)中編です。

 

 

 

テーマ: ゴムヒモ地獄からコントブームのリーダーへ

 

 (本文)

 吉野家の牛丼が一世を風ビする直前の

昭和54年の夏「吉野家の牛ドン」をパロって

オチにゴムヒモの強烈なパンチをもったコントに

私(※澤田隆治)は出会った。

 

 

 

5月に結成したばかりの「ゆーとぴあ」だった。

あのマンザイブームのきざしがみえた翌55年3月、

私(※澤田隆治)は自信をもって『花王名人劇場・漫才決定版』に

レツゴー三匹、内海桂子・好江、Wけんじといった

ベテランに対して全く無名のゆーとぴあを起用した。

 

 

 

新聞には「東京若手漫才界期待の新人ゆーとぴあ」と紹介され、

これが東京も大阪も14パーセント。

ゆーとぴあも文句なしに合格点でこの難関を突破。

 

 

 

早速2週間後の『花王名人劇場・漫才新幹線』に

セント・ルイス、チャンバラトリオ、コメディNO1という顔ぶれと共に

「目下めきめき売り出し中の東京若手漫才界のホープ・ゆーとぴあ」と紹介されて登場、

東京16.8パーセント、大阪25.5パーセントと人気に火がついたのだ。

 

 

 

まさにゴムヒモ一本の元手でお笑い番組には欠かせないコンビになったのだ。

 

 

 

ゆーとぴあのホープを仲間は「ジョウゴ」と呼ぶ。

城後という珍らしい名前が本名なのだ。

ジョウゴ君はトク出しのストリップ劇場の

コメディアン生活をかなりの間たえてきたしたたかな根性の持ち主なのだが、

どこか楽天的でもある。

 

 

 

本人もまわりもスターだ、

スターだと思っているうちにいつのまにか

フツウのコンビになってしまった。

 

 

 

マンザイブームの次はコントブームにするんだと

張り切って叫んでいたかと思ったら、

それもいつのまにか声が小さくなってしまった。

 

 

つづく

澤田隆治