(写真)・東京丸さん

 

本日は普段と内容を変更して

お送りさせて頂きます。

 

これから当ブログを管理している

スタッフの1人

株式会社テレビランド大西より

東京丸さんの追悼文を書かせて頂きます。

 

 

あまり気の利いた文章が書けませんが

最後までお付き合いをよろしく

お願い致します。

 

 

私が東京丸さんの訃報を実際に知ったのは

2021年(令和3年)2月8日(月)の午後11時頃でした。

 

 

今日で【※2021年(令和3年)3月19日(金)】公に発表されてから

およそ1ヵ月以上が経つ。

 

 

なぜ今頃になって文章を書くのか今後、聞かれると思うので答えると

私自身が当日は現実を全く受け止められなかったことと自分自身が最初に書いた

文章を発表する自信が無かったからである。

 

 

3月になると澤田隆治会長より、私が普段書いている

「管理人のひとり言」の文章に改めて共感を頂けたこと、

この文章については私自身の名前を公表して

過去のイベントチラシや写真を掲載して

改めて発表する事を推薦されたため

心の決心が本日ついた為に更新する事を決めました。

 

 

ここから本題に入ることとする。

2021年(令和3年)1月30日(土)漫才師の東京丸さんが心不全で亡くなった。

(※享年73歳)

 

 

東京丸さんは1947年(昭和22年)5月5日兵庫県出石町生まれ。

本名・楠本賢次郎。
 

 

1972年(昭和47年)10月に「東京二・京太」門下生として漫才コンビ

「東京丸・京平」を結成。


 

元々は1964年(昭和39年)に17歳で兵庫から東京へ上京し、

渋谷道頓堀劇場で芸能活動を開始していたとの情報を本人から直接聞いた。

 

 

 

「東京丸・京平」結成時には芸能活動8年目を迎えていた。

 

漫才協会、落語芸術協会に所属し主に東京の寄席を中心に

東京丸さんの独特のしゃべり方を持つ「爆弾ボケ」と

東京平さんが処理して突っ込む「中速スピード漫才」のスタイルを

1970年代から1980年代まで確立していた。

 

 

「チャランチャランランランチャンチャンチャン」のブリッジ芸の印象も強い。

ブリッジ芸の先駆者である。

 

 

このネタについてはホームページ上に記載されている為、ここでは割愛する。


 

主な活躍は1978年(昭和53年)3月に開催された

NHK第26回漫才新人コンクールでビートたけしさん率いる

「ツービート」を破って優勝した事がまず第1に思い浮かぶ。
 

 

このNHK第26回漫才新人コンクールについては

2人から私が直接エピソードを聞いた事がある。


 

当大会は当時は10組が出演して、ネタ順を決めるくじを引く際に「ツービート」は

1番を引き当てて、「東京丸・京平」は10番だったようだ。


 

最後のトリを飾る事が出来た事で審査員に抜群のインパクトを

残せた事が優勝の直接の原因だったと2人は答えていた。

 

 

しかし、東京丸・京平さんの心の内は自分たちが優勝ではなく

「ツービート」が1番だったと発言していた。(※諸説あり)


 

澤田隆治会長が「フジテレビ系関西テレビ」で「花王名人劇場」をスタートさせたのは

1979年(昭和54年)10月7日。(※1990年(平成2年)3月18日番組放送終了)

 

 

1978年(昭和53年)3月にNHK第26回漫才新人コンクールに優勝して

およそ1年半後に番組をスタートした事になるのであるが「東京丸・京平」を

番組で実際に起用したのは第8回目の1979年(昭和54年)11月25日(日)放送された

「おかしなおかしな漫才同窓会」の1回のみであった。


 

1981年(昭和56年)1月頃になると「東京丸・京平」は日本テレビの

「お笑いスター誕生」にも出演していた。

 

 

この番組はプロアマ合同で参加可能なお笑いネタ見せ番組であった。

 


「東京丸・京平」が挑戦していた頃の番組ルールは参加者同士の

対戦形式のネタ番組でなく、ネタ見せを行いその日その日の

個人ネタで審査員が審査を行い、通過すれば翌週も挑戦出来る

グランプリシリーズであった。(※不合格ならば数か月後に再挑戦可能)

 

 

「東京丸・京平」が挑戦していた頃の当番組は主に

とんねるず、シティ・ボーイズが10週勝ち抜きを目指している最中だった。

 

 

「東京丸・京平」は1982年6月に再挑戦も含めて8週勝ち抜きを果たし金賞を獲得。

 

 

この金賞を獲得した年に東京丸さんはアス出版より

「ヨイショの京丸 しくじり漫才記」の書籍も出版している。

 

 

上記の書籍については2012年頃に澤田会長は再販を本人に促した事がある。

 

しかし、本人の気持ちが前向きで無かったのが

直接影響したのか分からないが

再出版を実現する夢は幻に終わってしまった。

 

非常に残念であった。

 

 

1985年(昭和60年)10月にはテレビ朝日の「ザ・テレビ演芸」の

激突!!笑いのデスマッチ無制限勝ち抜き戦にも挑戦し、

3週を勝ち抜いた事もあった。
 

 

この大会は毎回二組のお笑い芸人が対戦し、

審査員の票が多かった方がチャンピオンとなり翌週は

新しい挑戦者と戦いグランドチャンピオンを目指す企画。

 

 

1989年(平成元年)に漫才協会真打ち昇進を果たす。

 

 

真打ちに昇進した1989年(平成元年)には

書籍「競艇 これで勝てなきゃオシマイだ!」2冊目の出版も果たした。
 

 

1992年頃から東京丸さんは鬱病を抱えて芸能活動を休止し、

東京平さんは相方の復帰を待って主に司会業を中心に

一人で芸能活動を続けていた。

 

 

芸能界復帰を果たしたのは2002年(平成14年)の出来事でした。

 

 

世の中が高齢社会(※1994年以降)から

超高齢化社会(※2007年以降)を迎えた頃に

澤田会長は「東京浅草」の「漫才協会」の面々を

キャスティングした「澤田隆治の笑いの殿堂 ざ・らいぶ」と題した

演芸イベントを東京・下北沢を皮切りに各地で開催し続けていた。

 

 

初舞台は2008年(平成20年)9月5日(金)にスタートした。
 

 

澤田会長が東京丸・京平を起用したのは2009年(平成21年)11月27日(金)に

浅草公会堂で開催された第40回漫才大会で作家を務めていた際に出会ったのが

そもそものキッカケだった模様。

 

下記の写真は当日のイベントのパンフレット。

(写真)

・2009年(平成21年)11月27日(金) 第40回漫才大会

・場所:浅草公会堂

 

 

このイベントは2021年(令和3年)現在も昼夜2回に渡って開催され、

12月下旬にはNHK総合でテレビ放送される「年忘れ漫才競演」である。

 

 

2010年(平成22年)8月24日(火)に「千葉県流山市の流山文化会館大ホール」で

「笑って健康!お笑い大行進」第1回目がスタートした。



この笑って健康イベントに「東京丸・京平」が初めて出演したデータを調べてみると

2010年(平成22年)2月20日(日)「笑って健康!お笑い大行進」第7回目であった。

 

(写真)・2010年(平成22年)2月20日(日)「笑って健康!お笑い大行進7」

 

流山市初登場時の東京丸・京平の漫才は

1970年代から1980年代の中速スピード漫才とは打って変わって、

ゆったりとした「スローバラード漫才」に変化していた。

 

 

地元民に徐々に浸透し、地域との愛称はバッチリに思えた。

 

 

観客の反応はおとなしかったのであるが次、また見たいとの意見が

アンケートにも記載されていました。

 

あたたかいコメントが多くて非常に私自身うれしかった。

周囲の期待も徐々に高まっているように思えた。

 

 

流山での「東京丸・京平」はいつも一緒に現場入りし、

楽屋でも楽しくネタ合わせ、競演者とも気兼ねなく

雑談を交わしていた姿を伺う事も出来た。
 

仕事が終わり、帰宅する時も2人揃って帰宅していた。

ここまでコンビ仲が良い漫才師も非常に珍しいかもしれない。

 

 

2012年(平成24年)6月にはかつて「東京丸・京平」名義でリリースされた

EPレコードの歌「ヨイショ!音頭」のCD再販も実現させた。

(写真左右)・ヨイショ音頭(東京丸・京平)(2012年発売CD)

 

 

このレコードは1982年(昭和57年)にファニーキャットレコード、1983年(昭和58年)に

バージョン違いでセンチュリーレコードより2回に渡って発売されたものである。

 

 

(写真左)・ヨイショ音頭(EPレコード)(※初期1982年作品)

(写真右)・ヨイショ音頭(EPレコード)(※再販1983年作品)(※紅白歌合戦形式)

 


当の「東京丸・京平」ご本人はこのレコードを左の初期盤の片方しか持っていなかった。



しかし、私、大西が自分で言うのも難であるが非常に変わり者で両方共、

奇跡的に所有していた。

 

趣味が仕事に役立った瞬間を肌で感じる事が出来た最高の瞬間であった。

 

作品は澤田会長が監修・コメント担当。

ミソラレコード、牡牛座の制作が決定した。

企画が実現した時の私のテンションは最高潮に高まるばかりであった。

 

 

この「ヨイショ!音頭」のCDは2021年(令和3年)の現在も

浅草の「東洋館」で購入可能である。

 

 

曲はテンポの良い宴会ナンバーに仕上がっていて1978年(昭和53年)と

2011年(平成23年)の「東京丸・京平」漫才2種類を加えた3本立ての内容だ。

 


そこから回を重ねて、2012年(平成24年)11月20日(火)にはかつてTBS系列の

ザ・ドリフターズ出演「8時だヨ!全員集合」の収録も行われた事のある

流山文化会館大ホールで「東京丸・京平40周年記念イベント」をお祝いさせて

頂いた事が最大の思い出である。


 

下記は当時のチラシである。参照して頂きたい。

(写真)

・笑って健康!お笑い大行進25 第ニ回東葛大会

東京丸・京平漫才生活40周年記念

2012年(平成24年)11月20日(火)(場所:流山市文化会館)

 

 

澤田会長との3ショット写真はイベント終了後に撮影したものである。

澤田会長の奥様が所持していたデジタルカメラで私、大西が実際に撮影したものである。

(写真)左から・東京丸、・澤田隆治、・東京平(2012年11月20日)

 

 

2012年6月に発売した「東京丸・京平」の「ヨイショ音頭」の

CDを一緒に手売りした事も忘れられない思い出の一つである。

 

 

イベント終了後の物販を行っていた東京丸さんの表情は

多少照れくさいように目にみえて取れた。


サイン、写真撮影に的確に応じていたが

何かおぼつかない感じがしなくもなかった。
 

やはりかつて「うつ病」を発症して休業した事が原因かもしれないと私は感じた。

 

 

私、大西が東京丸さんに本番前や休憩中に立ち話しをした思い出についても懐古する。
以下の会話を楽しんで頂きたい。

(※少し長い文章ですがお付き合い下さい。)

 

 

【スタッフ大西】:
京丸さんは、最近自宅や職場で2階に上がった時に何の用事で行ったのか?

忘れてしまうことはありますか?
 

 

【東京丸】:

大西さん、私は2階に登る前にさっき言われた事を昔からすぐに忘れてしまいますよ。


 

【スタッフ大西】:
(笑)。
 

私は一度も無いです。
 

 

【東京丸】:
もし忘れたなら運動の為に登った事にしましょう。
 

(※終了)

 

 

本番前の私、大西と東京丸さんの雑談であったが朝からテンションマックスで
もう誰にも止められないような会話が返ってきていた。イベントが楽しくなる予感がした。
 

休憩中の会話も以下に示す。

 

 

【スタッフ大西】:

京丸さん、お疲れ様です。

 

日本人は今朝、食べた朝食を覚えてない事が多いそうですよ。

 

京丸さん、今朝、食べた朝食を覚えてますか?

 

 

【東京丸】:
それくらいは覚えてますよ、大西さん。

馬鹿にしないで下さいよ。

 

 

【スタッフ大西】:
さすがですね。
奥さんに常に感謝されてるんですね。

私は今朝、朝食を食べたかどうか覚えて無いんですよ。

 

 

【東京丸】:
(苦笑い)

 

大西さん、何の話しをしてるんですか?

 

それ、大西さんの方が問題あるじゃないですか?

 

(※終了)

以上、ここまでが本番前と休憩中の会話である。

 

 

この休憩前の東京丸さんは我に返ったかのように非常にしっかりしていて、

私、大西の方がボケているのが見て取れる。(笑)

 

 

一体、何の会話をしているのか非常に恥ずかしいものであるが残しておく。

 

 

こういう会話が生まれるのは当然の結果だったかもしれない。(笑)

 

 

こうして「流山生涯学習センター」、「流山文化会館」イベントは2010年から2016年まで
およそ7年に渡って合計50回に渡って開催された。素晴らしいのひとことに尽きる。

 

 

最後に東京丸さんと仕事させて頂いたのは2015年11月1日(日)の

「笑って健康!お笑い大行進」第44回目の流山生涯学習センターイベントでした。

(写真)・「笑って健康!お笑い大行進44」 2015年11月1日(日)

場所:流山生涯学習センター
 

 

最後にお仕事でご一緒させて頂いた時がもう今日から7年前になる。
時が経過するのは本当に早いものだ。

 

 

「流山生涯学習センター」で最後にイベントを行ったのが2018年8月。

こちらも間もなく3年前になる。

 

 

2012年頃から2019年頃までは「ナイツ」の推薦でテレビ出演も多かった。
 

 

アメトーーク(テレビ朝日)、アウトデラックス(フジテレビ)、

踊るさんま御殿(日本テレビ)、さんまのお笑い向上委員会(フジテレビ)、

水曜日のダウンタウン(TBS)に出演。
 

 

舞台と同様にテレビでのインパクトも大きく思えた。
 

 

東京丸さんの最後のステージは

2020年6月10日の浅草演芸ホールの夜の部が最後のステージだった模様。

 

 

結成期間は紆余曲折様々な出来事があったのであるがおよそ49年間という事になる。
お疲れ様の一言に尽きる。
 

 

退院して2021年(令和3年)にもう一度、寄席で漫才が見たかったものだ。
 

 

改めてバラエティ番組に出演する姿も同時に拝見したかった。
もう見れないなんて…

 

 

非常に残念である。まだ私は現実を受け止める事が出来ていない・・・

 

合掌

 

 

下記の2つのページも合わせてよろしくお願い致します。

 

(1)・水道橋博士氏のnote(※2021年2月9日)

 

 

(2)・「おしる子日記」ブログ

主に流山市地域タウン情報が掲載されています。

(※2021年2月10日)

 

 

 

 

 

澤田事務所管理人

大西康裕