この「連載プレイバック」は1982年7月8日から1989年9月28日まで

雑誌「スコラ」に掲載された笑人間(※著者:澤田隆治)を加筆訂正したものです。

 

本日は1982年(昭和57年)9月23日 笑人間「京唄子・鳳啓助」(#6)中編です。

テーマ:「続いて欲しい、大当たりのジンクス」

 

(本文)

考えてみると、私が一番長く付き合っている漫才コンビは唄子・啓助、

25年以上(※1982年当時)にもなる。

 

有望な新人の漫才コンビとして世間の目にとまりだしたのが1956年(昭和31年)頃で、

戦前・戦後と生き抜いてきた人気コンビが一杯いた漫才の黄金時代であった。

 

行くところ爆笑の渦だった中田ダイマル・ラケット、蝶々・雄二、ミスワカサ・島ひろし、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケと目白押し、それにかしまし娘、

海原お浜・小浜がメキメキ売り出したころに、姿三平・浅草四郎、秋田Oスケ・Kスケ

(後の三代目平和日佐丸と横山ノック)そして唄子・啓助がなんとか売れたいと頑張っていた。

 

大阪千日前にあった歌舞伎座の地下の演芸場で剣劇漫才をやっていた唄子・啓助の

漫才を初めてみたとき、いまや貫禄十分の大口のお姐さんも若くてメチャメチャに

綺麗だった。

 

その頃の女性の漫才師といえば変型ばかりで、顔が悪いか、(小円・栄子の木村栄子さん、お浜・小浜の海原お浜さん)太ってるか(芳子・市松の浪花家芳子さん、〆吉・貞奴の花菱〆吉さん)、小さいか(蝶々・雄二のミヤコ蝶々さん、喜多代・洋介の今喜多代さん)、

もっぱらその肉体的欠陥が笑いの対象となっていたので、京唄子を初めて見た時は

どうしてこんな綺麗な人が漫才をやっているのかと真剣に考えたものである。

 

つづく