退屈との格闘を続けていると、あるとき僕は病気になった。
僕は朝から頭痛がひどかったので、近くの小さな内科に行った。しかしそこで勧められたのは精神科での検診だった。
「あなたはどこも悪くありません。おそらく心の問題でしょう。」
心の問題。
僕は電話帳で精神科を探し、一番近くにあった病院をメモした。
きみどり精神科
こんなところに精神科なんてあっただろうか。僕はいぶかしがりながらも、住所の場所に向かった。
大通りから逸れ、枝分かれした細い道に入っていく。何年も過ごした土地であるにもかかわらず、僕はその道を全く知らなかった。人通りは無く、両側には新築の住宅が並んでいる。住人は寝静まっているかのように、何の物音もたてなかった。僕の歩く音だけが周囲に響き渡る。
しばらく住宅にはさまれた道を歩いていると、突然その光景が目の前に広がった。
―――なんだここは?
きみどり色のフェンスに囲まれた敷地内にはきみどり内科、きみどり外科、きみどり眼科、きみどり精神科・・・ありとあらゆる病院がきみどり色の看板をかかげている。
どの建物も真新しく、壁は新緑を貼り付けたみたいに、どれもこれもきみどり色に塗られている。
僕は車が1台も停まっていない駐車場を横切り、精神科の前まで行った。「きみどり精神科」の看板をあらためて確認し、きみどり色のドアを開けた。
「いらっしゃいませ。」
受付らしき女性がこちらを見る。
「あの、初めてなんですけれど、精神科での検診を勧められまして。」
少々お待ちください、彼女はそう言って、手元の資料に目をやった。
「15分ほどお待ちいただけますでしょうか。先生は今水浴びをされていますので。」
「水浴び?」
「ええ、まことに申し訳ありません。少々お待ちください。」
わかりました。そう言って僕は向かいのソファに腰掛けた。
ソファはもちろんきみどり色だった。壁もきみどり色、天井もきみどり色、僕の横にはきみどり色の観葉植物が置かれていた。植木鉢ももちろんきみどり色だった。
しかし慣れてしまえばなんということは無かった。
僕はぼおっと杏子のことを考えながら、名前を呼ばれるのを待った。杏子はなぜ僕みたいなつまらない人間と会うんだろう。彼女は確かに夫とうまくいっていなかった。しかし彼女は誰もがはっとするような美しい容姿の持ち主であった。わざわざ僕みたいなさえない人間と定期的にコーヒーを飲む必要なんてないのだ。
細川杏子
彼女は僕が大学時代に関係をもっていた女性だった。
今の彼女には夫がいたが、総合商社で海外営業をやっている夫はほとんど家に帰ってこなかった。
「君の旦那さんは、君が僕とこうやって会っていることに文句は言わないのかい?」僕はあるとき尋ねてみた。
「あの人にとって私はハウスキーパーでしかないの。家のことさえキチンとしていれば、私がどこで何をしていようが文句は言われないわ。私というものに全く興味がないの。仮に私があなたと寝たとしても、気づきもしないでしょうね。」彼女はいくぶん寂しそうにそう答えた。彼女のほうはまだ夫を愛しているのだ。
僕はまだ彼女のことを愛していた。しかし、彼女にとって僕と会うことは寂しさの埋め合わせでしかなかった。そういうわけで、僕は彼女を抱こうとしなかったし、彼女もまた僕に抱かれようとはしなかった。
僕らは退屈の共有者でしかなかった。
そんなことを考えていると、受付の女性に名前を呼ばれた。
「先生が戻られましたので、診察室へお入りください。」
「わかりました。」
僕は診察室のドアを2度ノックし、ドアを開けた。
ドアを開けると、一匹の大きなかえるが座っていた。
かえるは首から聴診器を下げ、マスクをし、真っ白な腹を突き出していた。きみどり色の世界で、かえるの腹だけが白くまぶしい光を放っている。
「こんにちは。」めんどくさそうにかえるは言った。
「こんにちは。」僕は答えた。
「頭が痛いんで、内科で診てもらったんですが、精神科に行ったほうがいいと言われまして。急ですが伺わせていただきました。」
全く問題ありません、そうかえるは言った。
すると、かえるは僕の胸やら腹やらに聴診器をあて始めた。どう見てもそれは内科検診で使う聴診器にしか見えなかった。しかし、かえるの世界では精神科でもこれを使うのかもしれない。僕は気にしないことにした。
「あなたは確かに病気ですね。」かえるは咳払いをしながらそう言った。
「病気?そりゃあ頭も痛いし、病気なのは分かるんですけど、いったい何の病気なんですか。」
「この病気に名前なんてものはありません。」
「名前がない?」世の中に名前がない病気なんてものが存在するんだろうか。
「ええ。そもそも人間の心なんて目に見えるものじゃないんですから、例えば私があなたの病気はやれ「風邪です」とか「うつ病ですだ」とか「疲労骨折です」とか言っても説得力がないでしょう?名前なんてものはどうでもいいんです。」
それもそうだな。
「ただ言えることはあなたは心の病をわずらっていらっしゃるということです。」
「心の病・・・どうすれば治るんでしょう。」
「治りません。」
治らない?そう言われても僕にはピンと来なかった。僕が知っている治らない病気というものは片手で数えるくらいしかなかった。心の病は当然に治るべき病気としてカテゴライズされていた。
「治らないんですか?」僕はたずねた。
「ええ。心の病ってヤツは治りません。人間の性格なんてものは一生変わらないでしょう?それと一緒です。心が変わるということはありません。心が病んだら、その心はずっと病気のままなんです。」
「どうしようもないんですか?」僕は幾分不安になった。一生病気なんてまっぴらごめんだ。
するとかえるはこう続けた。
「どうしようもないってものでもありません。治らないならどうすればいいと思います?」
僕は黙って話の続きを待った。
「・・・治らないならごまかせばいいんです。」かえるは言った。
「ごまかす?」
「ええ。ごまかすんです。薬を使ってね。私が今から渡す薬を飲めば、つまらないことはきれいさっぱり忘れます。忘れるといっても記憶喪失になるわけじゃあございません。寝る前にこの薬を飲んで10分もすれば強い眠気が襲ってきます。あなたはそれにしたがって眠ってくださればいい。眠ってしまえばあとはいつもどおりです。起きたら次の日、新しい朝がやってきます。」
それはただの睡眠薬じゃないのだろうか?その疑問を口にする前に、かえるはこう続けた。
「この薬が睡眠薬と決定的に違うのは「感情を殺す」というところです。嬉しい、悲しい、楽しい、情けない・・・いろんな感情が一日のうちに沸いてくるでしょう?この薬はその日に沸いてきた感情を全部殺してしまうんです。」
「感情を殺す?」
「そう、実際に薬を飲んでいただいたほうが分かりやすいでしょう。最初に言ったように、あなたの心の中なんてものは私には分かりません。ですが退屈でつまらないと感じておられることのほうが多いでしょう。なんてったってあなたは心の病をわずらっておられるんだから。他の医者はやれ坑うつ剤や坑不安剤やとよく分からない薬を処方するでしょうが、あんなもの気休めでしかありません。心の病に効くのは私が今から渡す薬だけです。」
確かに僕にとって毎日は退屈でつまらないものでしかない。仕事だってない。やるべきことなんてものもない。なにもない。それはかえるの言うとおりだ。
「その薬を飲めば、退屈なことやつまらないことは忘れられるわけですね?」
かえるはため息をついた。
「そんなに都合よくはいきません。嫌な事もいい事も記憶としてはちゃんと残ります。ただ、それにくっついてくる感情だけはきれいさっぱり忘れてしまうんです。かえると同じです。かえるにも感情ってやつはありますが、昨日までのことなんて覚えちゃあいません。とりあえず飲んでみてください。」
僕はいまいちかえるの言うことが理解できなかったが、「わかりました。」そう言って診察室を後にした。これ以上かえると話しても正確な理解はできそうもない、そう思ったからだ。
僕は受付でお金を払い、その薬を21錠手にした。
僕はその日、杏子を夕食に誘った。
「めずらしいわね、ご飯に誘われるなんて。お金はあるの?」
「ないよ。」僕はそう答えた。
「レディーにおごらせる気かしら。」
「大丈夫、お金がないって言ってもご飯食べるくらいの分はあるさ。僕がおごるよ。」
「あら、ありがとう。」
僕はペンネ・アラビアータを口に運びながら、今日の出来事を杏子に話した。どうやら心の病をわずらっているらしいこと、薬をもらったこと、病院がきみどり色だったこと、医者がかえるだったこと。
「そんなの、どう考えたっておかしいわよ。」彼女は口に運びかけたルッコラを皿に戻した。
「かえるの医者なんてヤブ医者に決まってるじゃない。その薬だって怪しいものだわ。ちゃんとした精神科に行ったほうがいいわよ。」
彼女は本当に心配してくれているようだった。
しかし僕は話をさえぎった。
「杏子、僕はたしかにかえるが出てきたときはそりゃあびっくりしたよ。けれどね、そのかえるの言うことにはある種の説得力があったんだよ。人間が人間の病気を診るときには感情が邪魔をして、うまく診察できないということがあると思うんだ。それがかえるならばどうだろう。かえるは人間の気持ちなんて知りゃしないんだ。ただそこにある病気を正確に捉えるだけさ。」
「かえるだからこそ正確な診断が出来るってこと?」
「そうだね。」
「あきれた。あなたの考え方には時々ついていけなくなるわ。」
「ともかく僕はそのかえるを、薬を信用してみるよ。」
「もう。勝手にすれば。」
彼女は皿に戻したルッコラを再び食べ始めた。
僕は家に帰ってさっそく病院でもらった薬を飲んでみることにした。
プチンと錠剤を取り出し、水で薬を飲み干す。
薬自体は市販の風邪薬となんら変わらない。
僕はソファの上で新聞を読みながら、効果が現れるのを待った。
10分ほどすると、突然強烈な眠気が僕を襲った。
僕は新聞をたたみ、部屋の明かりを暗くし、すぐにベッドに入った。
―――そこから先のことはよく覚えていない。
気がついたら次の日の朝だった。
目覚まし時計がルルルルと鳴り、僕を眠りの世界から追いだす。
僕は目覚ましを止める。朝8時。いつもの時間だ。
しかし、その朝はいつもの朝と決定的に違っていた。
その朝は完全に「新品」の朝だったのだ。
僕はまず、昨日あった出来事を思い出すことにした。
昨日は朝起きて掃除をし、洗濯をし、近所の内科に行った。そして電話帳で精神科を調べ、きみどり精神科なる病院に行った。そこでかえるの医者が現れ、薬をくれた。夜は杏子と共にご飯を食べ、帰って薬を飲んで寝た。
間違いない。
しかし。
僕はその出来事に付随して何を思ったかを全く思い出すことが出来なかった。僕は確かに昨日という一日を過ごした。しかし、何ひとつそこに付随する感情を思い出すことが出来なかった。
いったい昨日は楽しかったのだろうか?それとも悲しかったのであろうか?
僕はもしかして感情を失ってしまったんではなかろうか。僕はそう思った。そう思うと突然不安になってきた。
・・・ちょっと待てよ、不安?
大丈夫だ、感情はあるようだ。不安の後にはちゃんと安心という感情が沸いてきた。
僕は昨日かえるが言った言葉を思い出した。
「嫌な事もいい事も記憶としてはちゃんと残ります。ただ、それにくっついてくる感情だけはきれいさっぱり忘れてしまうんです。」
なるほど、こういうことだったのか。
僕はその日から毎日その薬を飲むようになった。
その薬を飲めば、全く新しい気持ちで次の日の朝を迎えられたからだ。
今日は確かに退屈でつまらない、しかし昨日までが退屈でつまらなかったかどうかは思い出すことが出来なかった。
今日は完全に「新品」なのだ。
僕はもちろん、楽しいと思う日には薬は飲むまいと思っていた。しかし僕には楽しいと思うべき日なんて一日たりとも存在しなかったのである。
僕は毎日その薬を飲み続け、薬が無くなったらきみどり精神科に行き、新しい薬をもらった。
―――強制終了
僕はその薬を飲んで眠ることをそう呼ぶようになった。強制終了すれば、昨日までのつまらない感情はどこかへ持ち去られ、完全に新しい一日を迎えられる。
最初のうち、僕は普段と変わらぬ生活をしていた。朝起きてみそ汁を飲み、掃除と洗濯をし、午前11時からは新聞を読んだり、近所を散歩したり、DVDを借りに行ったり、杏子を誘ってコーヒーを飲んだりした。そして夜の12時きっかりに一日を強制終了した。
しかし、しばらくすると僕は家からろくに出なくなった。
どんなにつまらない一日を過ごしても、翌日にはどうせきれいさっぱり忘れるからだ。無駄に動きまわる必要なんてない。
僕は朝8時に起き、11時までに掃除と洗濯を済まし、それから夜の12時までぼおっと過ごし、やはり12時きっかりに一日を強制終了するようになった。
そうして1ヶ月余りが過ぎたころ、杏子が家を訪ねてきた。
「何してるのよ。電話にも出ないし。」
「ああ、ちょっとね。」
「あなたヒゲもぼうぼうよ、髪の毛だってくしゃくしゃだし。」
「そうだな、一ヶ月くらいほったらかしてたからね。」
「もう。ちょっと着替えて出てきてよ―――
そう言った杏子が口を開けたまま下のほうに目をやった。
「ねえ、あなた、最近自分の姿を鏡で見たことある?」
「お風呂に入るときはいつも鏡を見てるよ。」
「ちょっと、相談があるの。外に出てきてもらえる?」
「いいよ。でも僕が答えられる相談なんて限られていると思うけどな。」
「いいからお願い。」
「わかった。」杏子の言葉には何か切迫したものがあったので、僕はそれに従うことにした。
「外で待ってるから。」そう言って杏子は部屋から出て行った。
杏子が相談?家庭のことだろうか。考えてもさっぱりわからなかった。いつも杏子と話すのはたわいもない身の上話で、彼女は勤めて家庭の話をしないようにしていた。僕もあえて彼女の家庭のことについては聞かないようにしていた。
僕はヒゲを剃り、髪を整え、スウェットを脱ぎ、久々に外出用のジャンパーを羽織った。
そして玄関に出て靴を履こうとする。しかし―――
―――靴が入らない。
理由は全くわからなかった。
いくら靴を履こうとしても、靴に足がおさまらないのだ。
その時杏子がガチャリとドアを開けた。
「気がついた?」
「え?」
「靴が入らなかったでしょう?」
「ああ、でもなんで分かったんだ?」
「・・・あなた、やっぱり自分で気づいていないのね。」
「どういうことだい?」
「あなたの足はもう普通の足ではないわ。」
「なんだって?」
「「かえる」の足。」
「かえる?」
そう言われて僕は改めて玄関にぶらりと垂らした足を見た。
長い指、緑色の皮膚、4本の指。
あいまいな記憶がよみがえる。そうだ、確か人間の足は肌色で・・・指は5本だ。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
「気づいた?」杏子が僕にたずねる。
「ああ。僕の足はどうやらかえるの足になってしまったようだね。他の部分はまだ人間の形を保っているのかな。」
「見たところね。」杏子は大きくため息をついた。
「この1ヶ月、何をしていたの?」
「特になにも。」
「あのね、あなた、きみどり色の病院に行ったでしょう?」
「ああ、行ったよ。」
「かえるが居る。」
「そうだね。」
「そこでもらった薬を飲んでる。」
「飲んでるよ。」
「もう飲まないで。」
「何だって?」
「もう飲まないで。お願い。」
「どうして?」
「わからないの?あなたはこのままいくと全身かえるになってしまうのよ。全身きみどり色のかえるに・・・
そこで僕は目を覚ました。きっかり朝8時。目覚まし時計が僕を現実へと引き戻す。
夢だったのだ。
僕は自分の足を確認した。肌色、五本の指、浮き出た血管。それは確かに人間の足だった。
僕はかえるの医者が言った言葉を思い出した。「かえるにも感情ってやつはありますが、昨日までのことなんて覚えちゃあいません。」かえるになれば、毎日が新しい一日なのだ。かえるになるのも悪くないかもしれない。
いや、いっそかえるになってしまえば―――
僕はきみどり精神科のある場所まで足を運んだ。
いつもどおり駐車場には一台たりとも車は停まっていなかった。僕は駐車場を横切り、きみどり「外科」のドアを開けた。
受付を済まし、診察室に入る。
そこにはやはりかえるがいた。
僕は開口一番こう言った。「僕をかえるにしてもらえませんか?」
かえるの外科医はためらいがちにこう言った。
「あなたはきみどり精神科に通っていた患者さんですね。たまにいるんです。薬を飲み続けるのがめんどうくさくなって、いっそかえるにしてくださいっていう患者さんがね。私は何人ものそういう患者さんをかえるにしてきました。しかしいいですか、かえるになったらもう戻れません。かえるはかえるのままです。かえるから人間に戻す、なんて手術はできませんよ。」
かまわない、僕はそうかえるに告げた。
わかりました、かえるはそう言うと、僕を手術室へと案内した。
杏子はどう思うのだろうか。夢で見たとおり、杏子はかえるになることに反対するだろう。
しかしそれもかえるになってしまえば気にならなくなるさ。
手術室のドアをゆっくりと開いた。