退屈との格闘を続けていると、あるとき僕は病気になった。
僕は朝から頭痛がひどかったので、近くの小さな内科に行った。しかしそこで勧められたのは精神科での検診だった。
「あなたはどこも悪くありません。おそらく心の問題でしょう。」

心の問題。

僕は電話帳で精神科を探し、一番近くにあった病院をメモした。

 きみどり精神科

こんなところに精神科なんてあっただろうか。僕はいぶかしがりながらも、住所の場所に向かった。
大通りから逸れ、枝分かれした細い道に入っていく。何年も過ごした土地であるにもかかわらず、僕はその道を全く知らなかった。人通りは無く、両側には新築の住宅が並んでいる。住人は寝静まっているかのように、何の物音もたてなかった。僕の歩く音だけが周囲に響き渡る。
しばらく住宅にはさまれた道を歩いていると、突然その光景が目の前に広がった。
―――なんだここは?
きみどり色のフェンスに囲まれた敷地内にはきみどり内科、きみどり外科、きみどり眼科、きみどり精神科・・・ありとあらゆる病院がきみどり色の看板をかかげている。
どの建物も真新しく、壁は新緑を貼り付けたみたいに、どれもこれもきみどり色に塗られている。
僕は車が1台も停まっていない駐車場を横切り、精神科の前まで行った。「きみどり精神科」の看板をあらためて確認し、きみどり色のドアを開けた。

「いらっしゃいませ。」
受付らしき女性がこちらを見る。
「あの、初めてなんですけれど、精神科での検診を勧められまして。」
少々お待ちください、彼女はそう言って、手元の資料に目をやった。
「15分ほどお待ちいただけますでしょうか。先生は今水浴びをされていますので。」
「水浴び?」
「ええ、まことに申し訳ありません。少々お待ちください。」
わかりました。そう言って僕は向かいのソファに腰掛けた。
ソファはもちろんきみどり色だった。壁もきみどり色、天井もきみどり色、僕の横にはきみどり色の観葉植物が置かれていた。植木鉢ももちろんきみどり色だった。
しかし慣れてしまえばなんということは無かった。
僕はぼおっと杏子のことを考えながら、名前を呼ばれるのを待った。杏子はなぜ僕みたいなつまらない人間と会うんだろう。彼女は確かに夫とうまくいっていなかった。しかし彼女は誰もがはっとするような美しい容姿の持ち主であった。わざわざ僕みたいなさえない人間と定期的にコーヒーを飲む必要なんてないのだ。
細川杏子
彼女は僕が大学時代に関係をもっていた女性だった。
今の彼女には夫がいたが、総合商社で海外営業をやっている夫はほとんど家に帰ってこなかった。
「君の旦那さんは、君が僕とこうやって会っていることに文句は言わないのかい?」僕はあるとき尋ねてみた。
「あの人にとって私はハウスキーパーでしかないの。家のことさえキチンとしていれば、私がどこで何をしていようが文句は言われないわ。私というものに全く興味がないの。仮に私があなたと寝たとしても、気づきもしないでしょうね。」彼女はいくぶん寂しそうにそう答えた。彼女のほうはまだ夫を愛しているのだ。
僕はまだ彼女のことを愛していた。しかし、彼女にとって僕と会うことは寂しさの埋め合わせでしかなかった。そういうわけで、僕は彼女を抱こうとしなかったし、彼女もまた僕に抱かれようとはしなかった。
僕らは退屈の共有者でしかなかった。

そんなことを考えていると、受付の女性に名前を呼ばれた。
「先生が戻られましたので、診察室へお入りください。」
「わかりました。」
僕は診察室のドアを2度ノックし、ドアを開けた。

ドアを開けると、一匹の大きなかえるが座っていた。
かえるは首から聴診器を下げ、マスクをし、真っ白な腹を突き出していた。きみどり色の世界で、かえるの腹だけが白くまぶしい光を放っている。
「こんにちは。」めんどくさそうにかえるは言った。
「こんにちは。」僕は答えた。
「頭が痛いんで、内科で診てもらったんですが、精神科に行ったほうがいいと言われまして。急ですが伺わせていただきました。」
全く問題ありません、そうかえるは言った。
すると、かえるは僕の胸やら腹やらに聴診器をあて始めた。どう見てもそれは内科検診で使う聴診器にしか見えなかった。しかし、かえるの世界では精神科でもこれを使うのかもしれない。僕は気にしないことにした。
「あなたは確かに病気ですね。」かえるは咳払いをしながらそう言った。
「病気?そりゃあ頭も痛いし、病気なのは分かるんですけど、いったい何の病気なんですか。」
「この病気に名前なんてものはありません。」
「名前がない?」世の中に名前がない病気なんてものが存在するんだろうか。
「ええ。そもそも人間の心なんて目に見えるものじゃないんですから、例えば私があなたの病気はやれ「風邪です」とか「うつ病ですだ」とか「疲労骨折です」とか言っても説得力がないでしょう?名前なんてものはどうでもいいんです。」
それもそうだな。
「ただ言えることはあなたは心の病をわずらっていらっしゃるということです。」
「心の病・・・どうすれば治るんでしょう。」
「治りません。」
治らない?そう言われても僕にはピンと来なかった。僕が知っている治らない病気というものは片手で数えるくらいしかなかった。心の病は当然に治るべき病気としてカテゴライズされていた。
「治らないんですか?」僕はたずねた。
「ええ。心の病ってヤツは治りません。人間の性格なんてものは一生変わらないでしょう?それと一緒です。心が変わるということはありません。心が病んだら、その心はずっと病気のままなんです。」
「どうしようもないんですか?」僕は幾分不安になった。一生病気なんてまっぴらごめんだ。
するとかえるはこう続けた。
「どうしようもないってものでもありません。治らないならどうすればいいと思います?」
僕は黙って話の続きを待った。
「・・・治らないならごまかせばいいんです。」かえるは言った。
「ごまかす?」
「ええ。ごまかすんです。薬を使ってね。私が今から渡す薬を飲めば、つまらないことはきれいさっぱり忘れます。忘れるといっても記憶喪失になるわけじゃあございません。寝る前にこの薬を飲んで10分もすれば強い眠気が襲ってきます。あなたはそれにしたがって眠ってくださればいい。眠ってしまえばあとはいつもどおりです。起きたら次の日、新しい朝がやってきます。」
それはただの睡眠薬じゃないのだろうか?その疑問を口にする前に、かえるはこう続けた。
「この薬が睡眠薬と決定的に違うのは「感情を殺す」というところです。嬉しい、悲しい、楽しい、情けない・・・いろんな感情が一日のうちに沸いてくるでしょう?この薬はその日に沸いてきた感情を全部殺してしまうんです。」
「感情を殺す?」
「そう、実際に薬を飲んでいただいたほうが分かりやすいでしょう。最初に言ったように、あなたの心の中なんてものは私には分かりません。ですが退屈でつまらないと感じておられることのほうが多いでしょう。なんてったってあなたは心の病をわずらっておられるんだから。他の医者はやれ坑うつ剤や坑不安剤やとよく分からない薬を処方するでしょうが、あんなもの気休めでしかありません。心の病に効くのは私が今から渡す薬だけです。」
確かに僕にとって毎日は退屈でつまらないものでしかない。仕事だってない。やるべきことなんてものもない。なにもない。それはかえるの言うとおりだ。
「その薬を飲めば、退屈なことやつまらないことは忘れられるわけですね?」
かえるはため息をついた。
「そんなに都合よくはいきません。嫌な事もいい事も記憶としてはちゃんと残ります。ただ、それにくっついてくる感情だけはきれいさっぱり忘れてしまうんです。かえると同じです。かえるにも感情ってやつはありますが、昨日までのことなんて覚えちゃあいません。とりあえず飲んでみてください。」
僕はいまいちかえるの言うことが理解できなかったが、「わかりました。」そう言って診察室を後にした。これ以上かえると話しても正確な理解はできそうもない、そう思ったからだ。
僕は受付でお金を払い、その薬を21錠手にした。

僕はその日、杏子を夕食に誘った。
「めずらしいわね、ご飯に誘われるなんて。お金はあるの?」
「ないよ。」僕はそう答えた。
「レディーにおごらせる気かしら。」
「大丈夫、お金がないって言ってもご飯食べるくらいの分はあるさ。僕がおごるよ。」
「あら、ありがとう。」
僕はペンネ・アラビアータを口に運びながら、今日の出来事を杏子に話した。どうやら心の病をわずらっているらしいこと、薬をもらったこと、病院がきみどり色だったこと、医者がかえるだったこと。
「そんなの、どう考えたっておかしいわよ。」彼女は口に運びかけたルッコラを皿に戻した。
「かえるの医者なんてヤブ医者に決まってるじゃない。その薬だって怪しいものだわ。ちゃんとした精神科に行ったほうがいいわよ。」
彼女は本当に心配してくれているようだった。
しかし僕は話をさえぎった。
「杏子、僕はたしかにかえるが出てきたときはそりゃあびっくりしたよ。けれどね、そのかえるの言うことにはある種の説得力があったんだよ。人間が人間の病気を診るときには感情が邪魔をして、うまく診察できないということがあると思うんだ。それがかえるならばどうだろう。かえるは人間の気持ちなんて知りゃしないんだ。ただそこにある病気を正確に捉えるだけさ。」
「かえるだからこそ正確な診断が出来るってこと?」
「そうだね。」
「あきれた。あなたの考え方には時々ついていけなくなるわ。」
「ともかく僕はそのかえるを、薬を信用してみるよ。」
「もう。勝手にすれば。」
彼女は皿に戻したルッコラを再び食べ始めた。

僕は家に帰ってさっそく病院でもらった薬を飲んでみることにした。
プチンと錠剤を取り出し、水で薬を飲み干す。
薬自体は市販の風邪薬となんら変わらない。
僕はソファの上で新聞を読みながら、効果が現れるのを待った。

10分ほどすると、突然強烈な眠気が僕を襲った。
僕は新聞をたたみ、部屋の明かりを暗くし、すぐにベッドに入った。

―――そこから先のことはよく覚えていない。

気がついたら次の日の朝だった。
目覚まし時計がルルルルと鳴り、僕を眠りの世界から追いだす。
僕は目覚ましを止める。朝8時。いつもの時間だ。
しかし、その朝はいつもの朝と決定的に違っていた。
その朝は完全に「新品」の朝だったのだ。

僕はまず、昨日あった出来事を思い出すことにした。
昨日は朝起きて掃除をし、洗濯をし、近所の内科に行った。そして電話帳で精神科を調べ、きみどり精神科なる病院に行った。そこでかえるの医者が現れ、薬をくれた。夜は杏子と共にご飯を食べ、帰って薬を飲んで寝た。
間違いない。
しかし。
僕はその出来事に付随して何を思ったかを全く思い出すことが出来なかった。僕は確かに昨日という一日を過ごした。しかし、何ひとつそこに付随する感情を思い出すことが出来なかった。
いったい昨日は楽しかったのだろうか?それとも悲しかったのであろうか?

僕はもしかして感情を失ってしまったんではなかろうか。僕はそう思った。そう思うと突然不安になってきた。
・・・ちょっと待てよ、不安?
大丈夫だ、感情はあるようだ。不安の後にはちゃんと安心という感情が沸いてきた。

僕は昨日かえるが言った言葉を思い出した。
「嫌な事もいい事も記憶としてはちゃんと残ります。ただ、それにくっついてくる感情だけはきれいさっぱり忘れてしまうんです。」
なるほど、こういうことだったのか。

僕はその日から毎日その薬を飲むようになった。
その薬を飲めば、全く新しい気持ちで次の日の朝を迎えられたからだ。
今日は確かに退屈でつまらない、しかし昨日までが退屈でつまらなかったかどうかは思い出すことが出来なかった。
今日は完全に「新品」なのだ。
僕はもちろん、楽しいと思う日には薬は飲むまいと思っていた。しかし僕には楽しいと思うべき日なんて一日たりとも存在しなかったのである。
僕は毎日その薬を飲み続け、薬が無くなったらきみどり精神科に行き、新しい薬をもらった。

―――強制終了

僕はその薬を飲んで眠ることをそう呼ぶようになった。強制終了すれば、昨日までのつまらない感情はどこかへ持ち去られ、完全に新しい一日を迎えられる。

最初のうち、僕は普段と変わらぬ生活をしていた。朝起きてみそ汁を飲み、掃除と洗濯をし、午前11時からは新聞を読んだり、近所を散歩したり、DVDを借りに行ったり、杏子を誘ってコーヒーを飲んだりした。そして夜の12時きっかりに一日を強制終了した。

しかし、しばらくすると僕は家からろくに出なくなった。
どんなにつまらない一日を過ごしても、翌日にはどうせきれいさっぱり忘れるからだ。無駄に動きまわる必要なんてない。
僕は朝8時に起き、11時までに掃除と洗濯を済まし、それから夜の12時までぼおっと過ごし、やはり12時きっかりに一日を強制終了するようになった。

そうして1ヶ月余りが過ぎたころ、杏子が家を訪ねてきた。
「何してるのよ。電話にも出ないし。」
「ああ、ちょっとね。」
「あなたヒゲもぼうぼうよ、髪の毛だってくしゃくしゃだし。」
「そうだな、一ヶ月くらいほったらかしてたからね。」
「もう。ちょっと着替えて出てきてよ―――
そう言った杏子が口を開けたまま下のほうに目をやった。
「ねえ、あなた、最近自分の姿を鏡で見たことある?」
「お風呂に入るときはいつも鏡を見てるよ。」
「ちょっと、相談があるの。外に出てきてもらえる?」
「いいよ。でも僕が答えられる相談なんて限られていると思うけどな。」
「いいからお願い。」
「わかった。」杏子の言葉には何か切迫したものがあったので、僕はそれに従うことにした。
「外で待ってるから。」そう言って杏子は部屋から出て行った。
杏子が相談?家庭のことだろうか。考えてもさっぱりわからなかった。いつも杏子と話すのはたわいもない身の上話で、彼女は勤めて家庭の話をしないようにしていた。僕もあえて彼女の家庭のことについては聞かないようにしていた。
僕はヒゲを剃り、髪を整え、スウェットを脱ぎ、久々に外出用のジャンパーを羽織った。
そして玄関に出て靴を履こうとする。しかし―――
―――靴が入らない。
理由は全くわからなかった。
いくら靴を履こうとしても、靴に足がおさまらないのだ。
その時杏子がガチャリとドアを開けた。
「気がついた?」
「え?」
「靴が入らなかったでしょう?」
「ああ、でもなんで分かったんだ?」
「・・・あなた、やっぱり自分で気づいていないのね。」
「どういうことだい?」
「あなたの足はもう普通の足ではないわ。」
「なんだって?」
「「かえる」の足。」
「かえる?」
そう言われて僕は改めて玄関にぶらりと垂らした足を見た。
長い指、緑色の皮膚、4本の指。
あいまいな記憶がよみがえる。そうだ、確か人間の足は肌色で・・・指は5本だ。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
「気づいた?」杏子が僕にたずねる。
「ああ。僕の足はどうやらかえるの足になってしまったようだね。他の部分はまだ人間の形を保っているのかな。」
「見たところね。」杏子は大きくため息をついた。
「この1ヶ月、何をしていたの?」
「特になにも。」
「あのね、あなた、きみどり色の病院に行ったでしょう?」
「ああ、行ったよ。」
「かえるが居る。」
「そうだね。」
「そこでもらった薬を飲んでる。」
「飲んでるよ。」
「もう飲まないで。」
「何だって?」
「もう飲まないで。お願い。」
「どうして?」
「わからないの?あなたはこのままいくと全身かえるになってしまうのよ。全身きみどり色のかえるに・・・

そこで僕は目を覚ました。きっかり朝8時。目覚まし時計が僕を現実へと引き戻す。
夢だったのだ。
僕は自分の足を確認した。肌色、五本の指、浮き出た血管。それは確かに人間の足だった。

僕はかえるの医者が言った言葉を思い出した。「かえるにも感情ってやつはありますが、昨日までのことなんて覚えちゃあいません。」かえるになれば、毎日が新しい一日なのだ。かえるになるのも悪くないかもしれない。
いや、いっそかえるになってしまえば―――

僕はきみどり精神科のある場所まで足を運んだ。
いつもどおり駐車場には一台たりとも車は停まっていなかった。僕は駐車場を横切り、きみどり「外科」のドアを開けた。
受付を済まし、診察室に入る。
そこにはやはりかえるがいた。
僕は開口一番こう言った。「僕をかえるにしてもらえませんか?」
かえるの外科医はためらいがちにこう言った。
「あなたはきみどり精神科に通っていた患者さんですね。たまにいるんです。薬を飲み続けるのがめんどうくさくなって、いっそかえるにしてくださいっていう患者さんがね。私は何人ものそういう患者さんをかえるにしてきました。しかしいいですか、かえるになったらもう戻れません。かえるはかえるのままです。かえるから人間に戻す、なんて手術はできませんよ。」

かまわない、僕はそうかえるに告げた。
わかりました、かえるはそう言うと、僕を手術室へと案内した。
杏子はどう思うのだろうか。夢で見たとおり、杏子はかえるになることに反対するだろう。
しかしそれもかえるになってしまえば気にならなくなるさ。



手術室のドアをゆっくりと開いた。

―――「・・・ねえ、私、ここの屋上に出るドアの鍵、持ってるの。」

ミカはにやりとした。大きな目が下から上へと僕を見上げる。

「どうやってそんなものを手に入れたんだい?」僕は尋ねる。

「このビルの警備員さんと仲良くなって、鍵をもらったの。」
「そんなもの、簡単にくれるとは思えないけどな。」
「簡単じゃないわ。その、警備員さんとはもちろんちゃんと寝たわよ。」
「寝た?」
「そう、寝るの。そして警備員さんを満足させてあげるの。アソコを使ってもいいし、おっぱいでもいいし、足でもいいし、鼻でもいいのよ。ともかくなんでもいいから警備員さんを満足させればいいの。そうしたら鍵はもらえるの。」
 僕はビルの警備員というものは大抵おじいさんがやっていると思い込んでいた。彼女と警備員(もちろんおじいさんであるのだが)が寝るところを上手く想像できなかった。

「君は屋上に出る鍵が欲しかったから警備員と寝たのかい?それとも警備員と寝たら「たまたま」鍵が手に入ったのかい?」
「そんなの、鍵が欲しかったからに決まってるじゃない。じゃなきゃあんなひょろ長くて辛気臭いのと寝たりしないわ。」

 ひょろ長くて辛気臭いの。

「そんなに屋上という場所は魅力的なのかな。」
「知らない。」
「知らない?」
「そう、私のまわりにも警備員さんと寝た知り合いやらなんやかんやがいるんだけど、みんな屋上に出る鍵を持ってるの。それを使って屋上に出てみたら・・・」
「出てみたら?」
「それは素敵な場所らしいのよ。」
「素敵な場所って、ずいぶんあいまいな情報だな。」
「ともかくみんな言うわ。屋上は素敵だって。でもね、誰も屋上がどうなっているかなんて教えてくれないの。」
「言ってはならないという決まりになっているのかな。」
「それは分からないわ。けれど多分そういうことなんだと思う。とにかく、女の子はみんな知ってるのよ。このビルの屋上が素敵な場所で、警備員さんと寝れば屋上に出る鍵が手に入るってね。」
「なるほど。」
「で、君はまだ屋上に出たことがないから、屋上がどうなっているかを知らない。」
「そう。」
「屋上がどうなっているかをどうしても知りたいから、警備員と寝た。」
「そうよ。」

 彼女はこくりとうなずく。

「でね。」彼女は続ける。
「今日は私と一緒に屋上に行ってもらいたいの。」
「僕と一緒に?」
「そう、あなたと一緒に、よ。」
「僕はその、鍵を持っているわけではないのだけれど、一緒に屋上にいく権利なんてあるのかな?」
「権利とか義務とか抽象だとか具体だとか、そんなものはどうでもいいのよ。要は私が鍵をもっていて、あなたと一緒に屋上に行きたいってことが重要なの。権利がどうとか言うなら、あなたにはちゃんと権利はあるわ。」
「ふうむ。」

 しかし権利がある、と言われていまひとつ釈然としない。
 警備員が持っている鍵、女性しかもらえない鍵、寝ないと手に入らない鍵。
 屋上に行く条件を僕は何ひとつ満たしていない。

「わかった、一緒に行こう。」僕は少しもやもやしながらも、そう答えた。
 単純に屋上という場所に興味があったからだ。
「本当?じゃあ今日仕事が終わったら電話をちょうだい。私のほうがきっと先に仕事が終わるから、下のスターバックスでお茶でも飲んでるわ。」

  ***

 僕がこのビルに来たのは、あるクライアントに対するアドバイザリー業務が目的であった。
 クライアントから委託されて、任意でそのクライアントの財政状態や、税金の納付状況やらの調査をし、改善案を提示するのである。
 僕はまだ入社したての新人なので、おおむね一日の仕事はヒアリングだけで終わっていく。上司は私がヒアリングしたことをとりまとめ、入手した数値データと照合し、最終的にクライアントにうさんくさい改善案なるものを提示する。
 入社して3ヶ月になるが、僕にはいったいこの仕事が本当に社会に必要なのかどうかわからない。

 ともかく、このビルに僕は仕事でやってきたのだ。
 ビルは全面ガラスばりで、いかにも最近出来たという感じのオフィスビルである。
 1階はロビーで、2階にはスターバックスコーヒーがあり、サブウェイがあり、敷居の高そうなパスタ屋があった。3階より上は全てオフィスになっていた。

 彼女と出合ったのは、その仕事の初日である。
 彼女はその日僕が訪れたクライアントの受付をやっていた。

―――白い肌、細い腕、黒くて長い髪―――
 彼女は病弱な少女のようにも見えた。歳は22から23といったところであろうか。
 しかし彼女には、一目見た瞬間から、決定的に僕の心を引きつける何かがあった。
 運命的に、宿命的に。

 僕はなんとか彼女と話をしたいと思った。
 僕は、受付の前をうろうろし、彼女が昼食に立つのを待ち、彼女が席を立った瞬間夕食に誘った。
 彼女はあっさり「いいわよ。」と答えた。「でも、仕事中にナンパされたのなんて初めて。」とクスリと笑った。

 僕は彼女を広尾にある地中海料理屋へと誘った。
 彼女は毎日、夕食は一人でとっているということだった。かなり本格的な料理をするらしく、毎日リゾットやら、タジンやら、ブリュレやらを作って食べていた。しかし、「一人で食べる夕食なんて、動物園でサルが食べるバナナより味気ないわ。退屈だから作ってるだけよ。作ることに意味はあるけれど、食べることに意味なんてないの。」そう彼女は言った。

 彼女は独特の世界をもっていた。彼女の目には陸は青色に、海は赤色に、空は黄色に映っているかのようだった。僕とは根本的に物事の捉え方が違うのだ。
 しかし彼女と話していると、僕は穏やかな気持ちになることが出来た。

 その日の夜、僕は彼女と寝ることになった。
 それは彼女と話しているときと同じく、僕をとても穏やかな気持ちにさせてくれた。そこには激しい肉欲のようなものは存在しなかった。
僕は彼女につつまれながら、青い陸を、赤い海を、黄色い空を想像した。こうやって彼女と寝ることで、僕の世界も何か変わるかもしれない。そう思えた。

 その翌日の午後である。

 僕は彼女と示し合わせ、一緒に昼食をとっていた。
 サブウェイのべジーデライトを食べながら、彼女は熱心に英字新聞を読んでいた。
 僕もそこで買ったシーザーチキンラップをゆっくりと口に運ぶ。
 昨日知り合ったばかりの女の子と、昨日寝て、今日も一緒に昼食を食べているというのは、なんだか変なものだな。そう思った。

 彼女は相変わらず長いまつげを左右に動かしながら、新聞の文字を追っている。
「英字新聞なんて、やっぱり英語の勉強にならないわね。」彼女はがっかりしたようにそうつぶやいた。「自己満足よ、こんなの。マスターベーションと同じだわ。本人はなんだか満足した気分になるけれど、出て行った精子はどこにも行き着かないの。カピカピになって、おしまい。」
 僕は黙っていた。
「ところであなたはうちの会社に何をしにきたの?」彼女は一応聞いておこうかしら、という風に尋ねた。

 そこで、僕は大まかな仕事の流れを説明した。彼女は仕事の内容は理解したようだったが、さして興味は持たなかったようだ。

「そんな真面目そうな仕事をしにきたのに、受付の女の子に手を出してしまったのね。」
「そうだね。」
「受付の女の子がかわいかったから我慢できなくなったのかしら。」
「ものすごく簡潔に言うと、そういうことかな。我慢できなかった、という表現も正しいかもしれないね。」
「ふうん。」彼女はじいっとこちらを眺めている。
「そろそろオフィスに戻ったほうがいいんじゃないかな。」僕は彼女にそう促す。

 すると、彼女が突然こう言ったのだ。

―――「・・・ねえ、私、ここの屋上に出るドアの鍵、持ってるの。」

  ***

 午後8時15分に仕事は終わり、僕は彼女に電話をする。
 彼女はスターバックスコーヒーで何かを退屈そうに口に運んでいた。
 ちらりとこちらを見て手を振る。

「お疲れ様。」
「お疲れ。」
「うちの会社に有益なアドバイスはしてくれたのかしら?」
「僕がやってるのはヒアリングだけさ。そういうアドバイスは上司がやる。僕がやってる仕事なんて、そうだな、マスターベーションみたいなものだよ。」
「ふうん。」

 そう言いながら、彼女は席を立ち、飲みかけの飲み物をゴミ箱に捨てた。

「さ、時間も無いし、屋上に行きましょうか。」
「時間がない?」
「そう、きっかり11時半になると、屋上は閉め切られちゃうの。」
「鍵があっても11時半以降は屋上に入れないのかい?」
「そうよ、鍵があってもダメ。チェーンでドアの取っ手をグルグルまきにされちゃうの。」
「君は屋上には行ったことがないみたいだけど、その情報は確かなのかな。」
「「みんな」そう言ってるから間違いないわよ。」
 きっかり11時半、それは僕が毎日眠りにつく時間だった。
 しかし誰が何のために11時半になると屋上を締め切るのか、皆目検討がつかない。というより、そもそも完全に封鎖しておくべきで、こんな風に鍵が出回っていること自体おかしな事なのだ。

 僕と彼女はエレベーターホールに移動し、エレベーターに乗り込み、最上階37階のボタンを押した。
 エレベーターはシューンと言う音と共に上へ上へと昇っていく。このままロケットのように宇宙まで飛んで行ってしまうんじゃないだろうか、そんなことを考えていると、あっという間にチンという無機質な音が鳴り、僕を現実に引き戻した。

「さ、行きましょ。」彼女がエレベーターを出て先を歩く。

 37階はガランとしていて、空っぽの牛乳パックのようだった。一応オフィスフロアのようなのだが、一切テナントが入っていない。人の姿は全く無かった。廊下の蛍光灯だけがまぶしく光っており、それ以外の場所は真っ暗である。

「去年までどこかのITだかETだかの企業が入っていたんだけれど、資金繰りが上手くいかなくなって潰れちゃったの。今の時代、クビが回らなくなった企業にどこもお金なんて貸してくれないものね。」彼女はそう言いながら、一歩一歩進んでいく。

 彼女は黒いヒールの靴をはいていたので、フロアに「コツコツコツ」という乾いた音だけが響き渡る。
 「コツコツコツ」その音が世界から音という概念を削りとっていく。彼女が一歩歩くごとに音がひとつ消える。最終的にはヒールの音以外のあらゆる音が存在しなくなってしまう。
 「コツン」最後の一歩。とうとうヒールの音さえ消えてしまった。
 彼女が突然、緑色の非常口の前で立ち止まったのだ。

「・・・ここよ。ここから1階上に上がったところが屋上。心の準備はできてるかしら?」
 彼女が僕に尋ねる。どうやら世界には音という概念がまだ存在しているようだ。
「大丈夫だよ。」僕が答える。
「オーケー。」

 彼女が非常口のドアノブに手をかける。ドアノブをひねると、ギイという音と共にドアは開いた。ドアの奥には薄暗い非常階段が見える。

 彼女はこっちよ、と言いながら、扉をくぐり、階段を一歩づつ昇っていく。僕も後を追う。
 踊り場を抜けると、一枚の鉄製の扉があった。扉は錆び付き、とてもこの真新しいビルのものとは思えない。錆び付いた扉のドアノブだけは新しく取り替えられたらしく、不気味に銀色の光を放っていた。
 これが屋上につながるドアなのだろう。
「さて。」
 彼女がガチャリと鍵をドアノブの鍵穴に通す。

 カキン。

 鍵は音を立てて簡単に開いた。

「さあ、いきましょ。」彼女がくるりと振り向く。すると―――

―――彼女はいつの間にか別の女に変わっていた。その女は僕が高校時代に寝た女であり、大学時代に寝た女であり、フィリピンで寝た女であり、さきほどまでの彼女でもあった。共通するのは、そう、僕が「寝た」女だということだ。

「この先が屋上よ。さあ、行きましょ。警備員さん。」

女は僕に向かってそうささやいた。

「パパ、ちょっとついてきて。行きたいところがあるの。」


「いいけど、どこへ行くんだ?」


「ナイショ。」

娘はプイと反対方向を向いた。
長い髪がなびく。

彼女はスタスタと歩き出す。
まるで何かのスイッチが入ったみたいだ。
大通りから離れ、脇の道を入り、人通りが少ない路地に入っていく。
周囲は人がまばらだが―――彼らの視線がつきささる。
おおむね、キャバクラ嬢を連れたオジサンだとでも思われているのだろう。



やれやれ、彼女の背中に「私の娘です」と張り紙を貼っておきたいくらいだ。



それにしても・・・娘にひっぱられて歩くなんて、なんだか変な感じである。
いつのまにこんなに大きくなったのだろう。
ついこの間まで赤ん坊だった気がする。

感傷にひたる私にはおかまいなく、彼女は早足で進んでいく。
前を歩く彼女から風を切る音が聞こえてくる。
スカートがひらひらとゆらいでいる。

狭い路地、誰も気づかないような小さな駐車場の横に、それはあった。

Bar ブラウン

小さな緑色の看板、レンガ造りの壁、扉は重そうな鉄でできている。
窓は無く、中の様子はうかがい知れない。
扉は真っ黒に塗られていて、まるで来る客を拒んでいるようにさえ思える。

「着いたよ。」
「お前、どうしてこんな店知ってるんだ?」
「ネットでちょちょいよ、こんなの。確か5時から開いてるから、きっともう開店してるよ。」

ちらりと時計に目をやった。
確かに5時は過ぎているが「Open」の看板さえ見当たらない。
開いているのか閉まっているのか。潰れてるんじゃないかとさえ思う。

店を見上げる私を尻目に、彼女はためらいなくドアを引く。
重そうなドアは意外にも、彼女の力で簡単に開いた。
中からはジャズが聞こえてくる。
店内は照明が落とされていて、中はよく見えない。

「何してるの、パパ。入ろうよ。」
「え、ああ。」

テキパキと動く娘を見ていると、私のほうがマゴマゴしてしまう。

娘の背中を追いながら、私も店の中へと入る。

店内はカウンターだけが10席程度の、こぢんまりとした作りであった。
椅子は黒いスツールで―どこかのデザイナーがデザインしたのであろう―座る部分が奇妙にくぼんでいた。
カウンター越しに、バーテンダーらしき男が「いらっしゃいませ」と言う。
後ろには様々な種類の酒が陳列されている。
客は我々だけで、他に客はいない。

「さて。」

娘はそう言うと、一番奥の席に腰掛けた。
私も隣に座る。

「パパ、お酒好きでしょ?何か頼んだら?」
「俺はビールでいいよ。それより、お前、こんな店によく来てるのか?」
「ううん、バーなんて始めてよ。」

そう言う割には堂々としたものだ。

「すいません、ビールください。」

彼女は大きな声でオーダーする。

「お前は?」
「私はグレープフルーツジュース。」
「バーに来たのに飲まないのか?」
「ちょっと、ね。」

彼女は目を伏せた。

「今日はパパに話したい事があって誘ったの。」
「珍しいな。どうした?」

話をさえぎるように、ビールとグレープフレーツジュースが運ばれてくる。
私は一口、ビールを口にした。
―――美味い。ヨーロッパの物であろうか、飲んだことの無い味である。
娘はよくこんな店を見つけたものだ。

彼女は「話がある」と言っておきながら、宙を眺めたままだ。
ジュースが運ばれてきたことにも感心がないようだった。
私は彼女の話の続きを待った。

「・・・えっとね。」

彼女は口をもごもごさせた。
何か言いにくい相談でもされるのかもしれない。

「どうした?」
「パパ。」
「ん?」

彼女は大きく息を吸い込んだ。

「私、妊娠してるの。」

一瞬、意味が分からなかった。
妊娠だって?

「・・・うそだろ?」

とっさに出た言葉はそれだった。
娘の横顔をまじまじと眺める。
彼女はうつむいたままだ。

「ほんと。」
「なんちゃって、だろ。」
「ほんとだって。」

彼女は私のほうをじっと見据える。
腹を決めたようだ。
今度は私のほうが宙を眺める番だ。
彼女から目をそらし、ビールを一口すする。何の味もしない。

「ちょっと、聞いてる?」
「ああ。」

私は再びビールをすする。やはり何の味もしない。
味覚がおかしくなってしまったようだ。
オーケー、現実を受け入れよう。

娘は妊娠しているのだ。

私は再び彼女のほうをしっかりと向いた。

「それで・・・?」
「産もうと思ってるの。」
「・・・俺は相手がいたことも知らんぞ。」
「今度連れてくるから。」
「どこの馬の骨?」
「そんな言い方しないで。」
「結婚もしてないのに妊娠させるなんてロクな奴じゃない。」
「いい人だから。」

お腹が締め付けられる。
怒る理由はない、だが私はどうやら怒っているようだ。

「連れてきたらとりあえず殴っていいかな?」
「やめて。」
「つまらない男だったらの話だよ。」
「大丈夫。」

彼女の目はまっすぐ私のほうを向いていた。
「大丈夫。」
心の中で復唱してみる。
「大丈夫。」
私は自分に言い聞かせた。

「ちゃんとした仕事をしてる男だろうな?」
「歯医者、らしいよ。」
「歯医者?ホントか、それ。」
「私もよくわからないの。」
「よくわからないって、お前、いつからそいつと会ってるんだ?」
「二年くらい前から・・・かな。」

やれやれ、二年も前から彼氏がいたなんて。
私はどれだけ娘のことを知らなかったんだろう。

歯医者?

私はまたビールを口にした。なんだか少し味が戻ってきたみたいだ。
薄暗いカウンターの向こうを眺める。
バーテンダーは奥のほうで氷を削っている。
手さばきは慣れたもので、四角い氷はどんどん球体へと近づいていく。
上手いものだ。

ぼおっと、あさっての方向を見ている私を心配したのだろう、娘が私に話しかける。

「いい人だから。ね?」
「・・・いい人かどうかは俺が決める。」
「もう。」

彼女はぷくっと頬を膨らませた。
そしてやっとグレープフルーツジュースに口をつけた。
なるほど、だから「グレープフルーツジュース」だったのか。


妊娠しているのだ、彼女は。

しばらく沈黙が続いた。
娘はストローでぐるぐると氷をかき回している。
幼稚園のころから彼女にはストローで氷をかき回すクセがあった。
まだ子供じゃないか。そう思う気持ちが私をイラつかせた。
タバコ―――ポケットに手を突っ込み、すぐに引っ込める。
そうだ、タバコは吸えない。

妊娠しているのだ、彼女は。

再びそれを確認し、私は腹を決めた。

「・・・お腹冷やしたらまずいだろ。もう帰ろうか。」
「もういいの?」
「なにがだ?」
「ほら・・・もっと色々聞きたいこと無いの?」
「こんなに早くおじいちゃんになると思ってなかったよ。」
「ごめんなさい。」
「謝ることじゃないさ。」
「ごめん。」

そう言うと彼女は反対を向いてしまった。
泣きそうなのだと、すぐに分かった。

昔から泣く時はいつもそっぽを向いてしまっていた。
そらは今でも変わらないようだ。

「グレープフルーツ買って帰ろうか。」

私は娘の肩に手を置いた。
華奢な背中が少しだけ上下にゆれている。

「グレープフルーツより・・・」

私に背中を向けたまま彼女はつぶやいた。

「・・・ペペロンチーノ食べたい。」

彼女はくるりとこちらを向いた。
目が赤い。
しかし涙はこぼれていなかった。

「すっぱいものだろ、普通?」
「太郎がスパゲティー食べたいって言ってる。」
「太郎?お腹の子供か?もうちょっと真剣に子供の名前考えろよ。」
「あたしの名前、真剣に考えてくれたの?」
「二ヶ月かかったよ、名前考えるのに。」
「ふーん。」

二ヶ月は過大申告だ。一週間くらいだった気がする。

「とにかくペペロンチーノね。」
「はいはい。」

私は残ったビールを飲みほした。
―――美味い。

このビールの味は忘れられそうもないな。
苦笑と共に、席を立った。