他人のデリカシーの無い言動に「イラっとする経験」は多くの方が何度も経験している事と思います。

例えば、電車内での大声の会話や、優先座席を譲らない様なマナー違反的行為から、現在起こっているマスクの爆買いや転売まで・・・挙げていけばきりがありません。

しかし、そのほとんどに対して感情的には「イラっ」とはしても「心が傷つく」ことはありません。

 

ところが昨年、デリカシーのない言動で自分の心が深く傷つくのを実感するような出来事を体験してしまいました。

もちろん、私が傷ついただけで、している本人・言った本人は悪気もなく、そんなつもりも全くないのは百も承知です。

 

少し時間が経った今振り返ると、デリカシーのない行為で心が傷ついた・心が泣くレベルの経験は人生の中でそれほど頻繁に体験するものではないと思いました。

同時に「デリカシーが無い」というたったそれだけで、

かくも容易に、そして深く他人の心を傷つける事が出来てしまう事実に、とても怖くなりました。

 

持ち合わせていないと

他人を「ちょっとイラつかせる」から「心を深く傷つける」レベルまで

また「すぐに忘れられるレべル」から、「長く他人の心に傷として住み着いてしまうレベル」まで

残す爪痕が多岐に渡ります。

 

 

「デリカシー」の源泉とは何か・・・

 

それをちゃんと「自分なりに」であっても、考えてみたいと思いました。

でないと、自分も周りの人にそんな行為をたとえわざとでなくてもしてしまうし、してしまっていたと思ったからです。

 

 

私たちは一体何をもって「デリカシーが無い行為(人)」と「デリカシーのある行為(人)」と判断しているでしょうか。

そもそも他人から受けた行為に対してデリカシーがある無いを判断するのは、その行為を受けた人によって物差しは違います。

例えば、Aさんの行為は私にとっては「デリカシーのない行為」に感じられるかもしれませんが、別の人にとってはそう感じないかもしれません。

どう捉えるかは受け手の物差しによって異なります。

 

また、ゲスい言葉を使っても周りに笑って受け入れられ、好かれる人がいる一方

その人にとっては悪意のない言葉であっても、相手をイラっとさせる人がいます

 

下品な行為をしていても、そんな行為を誰も気にせずいつも友人に囲まれて楽しそうにしている人がいる一方

一見常識的に見えても、周りからは「うっとおしいなぁ」と腹の内では思われている人もいます

 

年齢とも関係ありませんし、外見でも判断できません

ましてや知識量や学歴、家庭環境、地位とデリカシーの力量が比例するわけでもありません

所得額とも関係ないです

心理学的な話ですが、自我の数とも関係ありません

 

 

デリカシーは「言動」に現れますし、言動で判断します。

とすれば、行動を創っているのは「心」なので、

心に何を持っていればデリカシーがあり、

何が欠けているとデリカシーが無いのか・・・

 

一体デリカシーの正体とは何なのでしょう・・・・

 

 

 

『デリカシーの正体って何だろう②』はコチラ

 

 

 

 

🔴 「SWDトレーニング①をご検討中の皆様へ」はコチラ

🔴 「研修(SWD①)受講『予定者様』からの嬉しかったお言葉」はコチラ

🔴 【各月3社限定】経営者様相談会はコチラ

🔴 よくある質問・お問合せはコチラ

 

🔴 Skill and Willホームページは↧↧↧

 

🔴 実施中研修内容(一部)ご紹介↧↧↧