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日本画展「そらみつ」は、2年に一度開催予定の展覧会で、今回が初回になります。
11名の日本画家が3点ずつ、計33点の展示になります。
【 京 都 展 】 2024年8月22日(木)~26日(月) 京都髙島屋S.C. (百貨店) 6階 美術画廊
【 大 阪 展 】 2024年9月4日(水)~9日(月) 髙島屋大阪店 6階 美術画廊
【 東 京 展 】 2024年12月18日(水)~29日(日) 日本橋髙島屋S.C. 本館6階 美術画廊
以下の3点は今回の私の出品予定作です。
チキサニ・カムイ(100号M )
アイヌ神話のハルニレの女神です。
ヤマトタケルの東征のおり、荒れ狂う海に身を投じて海神の怒りを鎮めたオトタチバナヒメです。
手にしているのは橘の花ですが、髪に挿しているのはノイバラです。オトタチバナヒメがヤマトタケルに遺した歌、
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも
(相武の野に燃え立つ火の中で、
わたしの心配をしてくださった貴方)
から、ふと、棘を落としたノイバラを、オトタチバナヒメの髪にそっと挿す皇子の姿が思い浮かび、描きました。
コノハナサクヤヒメ(8号F)
ニニギノミコトに不貞を疑われ、産屋に火を放って「天津神であるニニギノミコトの本当の子なら、何があっても無事に産めるはずです。」と語って火中に身を投じ、三柱のカミを産んだとされるコノハナサクヤヒメです。
美しく、そして凛とした強い意志を持つその姿を描きたいと思いました。
髪は少しみずらに似せて描きました。みずらは男性の髪型ですが、垂髪や巫女のような髷だとどうしてもイメージに合わず、かといって、天女のような中国風の髷もイメージに合わず‥‥若く初々しいコノハナサクヤヒメには、この髪が似合ってるいるように思いました。
今回のグループ展は「花とともに」をテーマに、賛助出品していただく芸術院会員の福田千惠先生から花を学びながら、さらなる日本画研究も目的としています。
[出品作家]
福田千惠【賛助出品】
久米 伴香 佐藤和歌子 福岡 正臣 藤島 大千
古川 功晟 中村 妃菜 能島 浜江 峯石 まどか
森下 恭介 諸星 美喜 山口 暁子
(敬称略・五十音順)
ご高覧賜りましたら幸いです。
そらみつ ホームページ
桜着物工房の鈴木富佐江さんのエッセイ(致知出版)です。
鈴木さんの考案された造り帯は有名ですし、雑誌やNHKラジオなどでご存知の方も多いと思いますが、実際にご本人にお会いしてみると、御年を感じさせない凛とした、とても素敵な方でした。近年は郷里の歴史などの研究にも勢力的に活動されているとのことです。
私が卑弥呼や臺与の絵を描いているということで、アトリエまで絵を観にこられ、今回、こちらの本にも掲載されています。ご依頼を受けて、四国の伝承に出てくる馬上の臺与と、邪馬台国の宮殿の挿絵も描いています。(大きな画像は提示できませんが。。。)
邪馬台国の時代に騎馬の風習はなかったとされていますし、臺与は卑弥呼と同じに巫女であったと思うのですが、ご依頼を受けた伝承の歌の通りに描くと、どう考えても、古墳時代の札甲のような鎧に、払子のようなものをつけた兜、そして槍を持って騎乗した勇ましい少女の姿になります。神功皇后かジャンヌ•ダルクのような感じです。
知人から、ヒューマントラストシネマ渋谷での「カムイのうた」の上映&舞台挨拶に招待していただきました。大正時代にユカラを日本語に翻訳したアイヌの少女、知里幸恵をモデルにした映画です(映画では北里テルという名の架空の少女になっています。)
映像も美しく時に幻想的で、北海道の自然の描写、動物たちの描写も素晴らしく‥‥‥
私は個人的に「知里幸恵」に特別な思い入れがあるのですが、主演の吉田美月喜さんの眼差しが印象的で、彼女のふとした視線に知里幸恵が重なって涙が止まらず‥‥。
心臓を患っていた幸恵は、「アイヌ神謡集」を書き上げたその夜に亡くなります。19歳の若さでした。彼女の遺作は、アイヌを未開人だと差別していた当時の日本人の心を大きく揺さぶり、100年たった今も刊行され続けています。
私は四十年前、生きる意味が見出せずに悩んでいた高校時代にこの本を読みました。古書店の本棚でたまたま見つけ、「銀の雫降る降るまわりに、金の雫降る降るまわりに」という冒頭の歌に引き込まれて‥‥‥ それ以降、愛読書の一つになっています。
アイヌ神謡集では、日本語訳の隣にアルファベットで書かれたアイヌ語の原文が書かれています。はじめてそれを見た時、文法も単語も日本語と全く違うことに驚きました。それまでは、アイヌというのは日本の一地方の人たちで、日本語の方言を話しているとばかり思っていたのです。異なる言語を話す異なる民族だったのかと驚きつつ、なぜか心が躍ったのを今でもよく覚えています。上手く言えませんが、私の中の閉ざされた世界に、小さな穴が一つ空いたような感覚でした。
知里幸恵の書いた序文を読んだのは、最後のページをめくった後のことです。
「亡びゆくものの‥‥‥それは今の私たちの名。」
そこにはそう書かれていました。
正直にいうというと、私はこの序文を『近代化した日本人がかつての日本人の心を失っていったように、アイヌの人たちもアイヌの心を失いつつあるのだろう。』と、そのくらいの気持ちで読んでいました。アイヌ民族の歴史や明治政府による同化政策を知ったのは、その後のことです。
話は戻りますが、この映画の主人公は「北里テル」という架空の少女になっています。
絵画も映画もあくまで虚構の世界です。生(き)の現実をいくら並べたてても、画面やフィルムに映るものは全て虚像です。私は画家なので映画の制作過程は分かりませんが、絵画の場合、虚構の世界に真実性を与えるためには、主題を際立たせ、不要な要素を削ぎ落とし、生の現実を絵画の「型」に翻訳し直さなければなりません。映画もそうだと思います。
「生の現実」とは違っていても、私は「北里テル」に「知里幸恵」を感じました。
映画監督は「僕の七日間戦争」の菅原浩史氏です。過剰な演出を指摘する人もいますが、私は気になりませんでした。逆に、こうした映画にありがちな芸術性を過度に意識した単調さや難解のない、舞台的な演出と演技が新鮮でしたし、私は最初から最後まで映画の世界に浸ることができました。
「カムイのうた」は、今の時代だからこそ、是非観てほしい映画です。
追記
この映画では北里テルという架空の少女になっていますが、もし史実性にこだわり「知里幸恵」にしたなら、彼女が敬虔なクリスチャンだったことも説明しづらいことだったと思います。幸恵はキリスト教の「唯一の神」を信じながら、命を振り絞ってアイヌの「神々」の物語を書きました。カムイ•ユカラを翻訳することを「神様の聖旨」とも語っています。これはキリスト教の知識もアイヌの知識もないおおかたの日本人はもとより、おそらく敬虔なクリスチャンの方たちにも理解しずらいことなのではないかと思います。私も「アイヌ神謡集」の解説を読んだ時、知里幸恵がクリスチャンだと知って意外に感じましたし、彼女を取り上げるメディアも、そのことを深く掘り下げるものはありません。たとえ深く掘り下げても、そのことに興味を持つ人は少ないと思います。
しかし時が経ち、彼女の日記や手紙を読んでいるうちに、私はだからこそ、彼女にさらに深い魅力を感じるようになります。幸恵を育てたユカラの語り部イメカヌ(金成マツ、洗礼名マリア)もそうでしたが、このアイヌの少女の心の中には、昨今の日本でよく言われる「一神教対多神教」とか「砂漠の宗教対豊かな自然の宗教」という対立構造のない「カムイの世界」が確かにあったように思います。
日記の中にしるされた、人や自然を見つめる彼女の眼差し、そして雨音のわずかな変化を綴る彼女の詩情は、私たち日本人の心にしみじみと深く響くものです。それは、自然と共に歩んできたアイヌのイメージそのものです。しかしキリスト教の信仰を語る部分は、時にまるでリジューの聖テレーズの日記を読んでいるようで‥‥‥日記を読むまでは、私は知里幸恵の「クリスチャン」の部分を、あまり深く考えたことはありませんでした。形だけの、とは言いませんが、軽いものだと思っていました。
アイヌにキリスト教を伝道し、アイヌの人権の向上に尽力した英国人の牧師の一人は、しかしアイヌの文化については未開のものとし、アイヌの神々を忌むべきものとしていました。おそらく当時の宣教師たちの多くがそのようなスタンスであったと思います。
幸恵はその日記の中でこう語っています。
「何故、聖公会だの救世軍だの何だのかんだのとわかれわかれになってるのだろうか。仏教だのキリスト教だのって‥‥。
自分の神さまを信じる人のみが天国に行き、あとのすべての人は地獄に行くという。私にはわからない。
ああもう宗教の事なんかわからない。ただ神様はある、たしかにあるという事だけを私は確信している。孔子様だの何様だのほんとうにえらい聖人であったろう。 イエス様の聖書を読んでは、一々、胸をさされる思いがする。本当に拝んでもいい。拝まなければならない。理屈なしに信ずればそれでよいではないか。」
でもその前には、偶像崇拝(異教崇拝)を厳しく戒める聖書の言葉「偶像をおがむ者のキリストと神との国をつぐ事を得ざるは汐等知ればなり。汝等もと暗かりしが今主にありて光れり。」を書き「副牧師のお話し、なんだか少しわかったような気がした。」と書いています。
幸恵の言葉は矛盾しています。でも私は彼女の日記を、そしてユカラを読んでいて、ふと思いました。矛盾していると感じるのは、私があまりに合理的な頭で物事を考えているからではないかと。彼女の心の中の世界では、彼女が感じた世界の中では、もしかしたら矛盾してはいないのではないかと‥•。
マリアという洗礼名を持つイメカヌについて、言語学者で民族学者の金田一京助は、こう語っています。
「不思議な事にキリスト教の信仰とアイヌの信仰の両方を持ち、何の衝突も矛盾も感じずに暮らしている」(※1)
イメカヌや知里幸恵の中には、異なる世界をそのままに、一つに包み込む何かがあったのではないでしょうか。その「何か」がなんなのか、正直、私にはわかりません。でも、頭ではわからなくても、心ではわかるような気もします。
アイヌのユカラの響きを聞くと、過去と今が、そしてアイヌの世界とカムイの世界が一つの布の中に織り込まれ、その紡ぎ出された世界の中に包み込まれていくような感覚を覚えます。ユカラを聴いていて、思います。イカルベや知里幸恵の中に、異なる世界を繋ぎ紡いでいく「何か」があったのだとしたら、それは彼女たちがアイヌだったからこそ生まれたものなのではなかったかと。そしてそれは、本当は私たち「大和民族」の中にも、その心の原風景の中にあるものではないかと‥‥この列島の自然に抱かれ、共に生きる民族として‥‥。
分裂していく世界の中で、その「何か」について語ることはあまりに情緒的で、意味のないことかもしれません。でも私はここに、「アイヌ•ネノ•アン•アイヌ(人間らしい人間)」であるための、人が人であるための大切な「何か」があるように感じます。
※1 石村博子『ピリカチカッポ(美しい鳥)知里幸恵と「アイヌ神謡集」』岩波書店、2022年。
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