昔、海外に住んでいる友人が火星人と交信し始めたことがある。パラボラアンテナのような通信装置を使うのではなく、頭の中にテラパシーでメッセージが送られてくるのだという。火星人というと、僕の世代的にはタコのような姿か、アメリカ映画の「宇宙戦争」に出てくる一つ目のヒューマノイドを思い出すが、友人の交信相手はどうやら普通の人間の姿らしかった。


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こうしたスピリチュアル系(?)の話を僕はけして嫌いではないのだけれど、それは「話を本気にしない」という前提付きだ。「本気にしない」というのは、「嘘だ」と決めつけることではない。こうした話は、僕の中ではレイ•ブラッドベリのSF小説やダンテの神曲と同じ種類のものだ。小説や神話はフィクションだからこそ、そこには詩的な真実がある。問題は、フィクションと現実を混同してしまうことなのだけれど、実のところその境界は曖昧だ。


 実は僕にも、非科学的な不思議な体験がいくつかある。でもそれはたぶん、無意識に記憶を再構築しているか、脳内物質の分泌(?)によるものだと思う。ただ、それが実際の体験か虚構か、ということではなく、その記憶を、目を閉じて、ただ「感じて」みることにしている。


 どんな人も、心の中に不思議なフィクションを持ってる。自分で気づいてないだけで。恋人のことで不思議な「運命」を意識してみたり、人によっては前世の縁や生まれかわりをなんとなく信じてみたり、亡くなった家族が天国から守ってくれたと感じてみたり。。。


 フィクションなしで生きていられるほどこの世界は優しくないし、人は強くもない。逆説的に言えば、人間にはフィクションを作る素晴らしい能力がある、とも言える。


 人間は豊かにフィクションを作り出す。小説、絵画、映画、音楽、宗教、思想、哲学。。。民族や、そして国家という共同体もそうだ。「家族」という形も。人は、現実と虚構を絡み合わせながら虚空の宇宙に色鮮やかな世界を紡ぎ出していく。



……それはともかく、火星人と交信する友人に対しては……


 経験上、宗教やスピリチュアル系の話を突然し始めた人を「あいつは頭がおかしくなった。」と頭から否定していると、相手の「SOS」に気づかなかったりすることもある。空想の世界に身をおくことでしか癒されないほど、その人の心が傷ついている、という時もある。もしくは統合失調症の場合もある。


 もっとも「私は火星人から命令を受けて、人類を救う使命を背負っている。」などと言われたら、それが他人なら笑ってすませるところだけれど、もしそれが大切な友人なら、とにかく座って真っ直ぐに相手の目を見つめて、ゆっくりと話を聞くことだ。


 もしそれが自分の愛する人なら、「私の言っていることは真実だ!」とエキサイトしはじめても、黙って手を握ってあげるしかない。『大丈夫。私はあなたのそばにいる。』と心の中で呟きながら。荒唐無稽なことを声高に叫ぶ人の傍に居続けるのは、とても危険だし、言うほど簡単なことではないけれど……次第に平常心を保てなくなるし、いるはずもない火星人が見えてくるようになることもある。人は自分が思うほど、この世界や自分の「現実」を信じてはいないから。

 


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藤島大千

 カスティリオーネがマカオに渡る160年前、イエズス会創始者の一人であるフランシシコ・ザビエルが明朝への布教を目指して日本から旅立つ。ザビエルは3年間の日本での宣教活動の中で、日本への布教のためには、日本へ影響を与えている中国への布教が先決であると思い至った。しかし彼は中国上陸を目前にして病を得、上川島で亡くなる。そのザビエルの遺志を受け継いだのがイタリア人イエズス会士のマテオ・リッチだ。リッチはヴァリヤーノの適応主義のもと「利瑪竇」という中国名を用いて中国への伝道を開始、六経を学びつつ儒者の服を纏って明の士大夫たちとの交友を深めていった。


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 室町末期の日本において、群雄割拠する戦国大名たちに布教した日本のイエズス会とは異なり、明という統一国家で中国のイエズス会が宣教の対象としたのは士大夫(官僚・知識人)たちだった。その士大夫たちが共通して重んじていたものは仏教や道教といった宗教ではなく、言うまでもないが儒教だった。儒教の「儒」とは「学問」を意味する言葉で、儒教は倫理学及び政治哲学でもあり、科挙試験と密接に結びついた、中国の国家体制を維持する上での根本的な装置の一つだった。「格物致知(物事の本質や筋道を研究して知識や学問を極めていく)という言葉に表されるように、また「君子怪力乱神を語らず」という孔子の言葉にあるように、士大夫たちは仏教や道教の形而上的な原理ではなく、儒教の示す形而下的な、理知的な道理を重んじる姿勢を自らの矜持としていた。たとえ仏教や道教(清朝八旗においてはシャーマニズムの儀式である跳神を含め)を信心していたとしても「鬼神を敬いてこれを遠ざく」であり、士大夫たちは非合理な世界観や事象とは明確に(個人差はあるが)距離をおいていた。その士大夫たちとの交友の中でリッチは四書五経を研究し、そこに西洋哲学や神学との接点を見出しつつ、キリスト教こそが儒教の形而上性を補い担うものと確信して儒教とキリスト教の融合を試みていく。※1)


 リッチは、1593年12月10日付のイエズス会総長宛の手紙に、儒教についてこう記している。


「四書は道徳書としてはセネカの再来というべく、西洋のキリスト教以前の作者たちの最高級の作者に肩を並べるものと考えられます」(1593年12月10日1)


 

 また晩年に作成された「報告書」にはこう記されている。


「中国人の間で最大の哲学者は孔夫子で、主(イエス・キリスト)の御生誕より550年前に生まれ、70年にわたる立派な生涯を送って、談話や事業や書物によりこの国民を教化した。世界にまたとない聖人として当地では尊崇をうけている。実際孔子の言ったことや孔子の立派な生き方は自然に即したものであり、西洋の古典期の哲学者にひけをとるものではない。むしろ逆に孔子の方がその多くの者を凌駕している。」(報告書第一巻第五章)


 万暦 32年(1604年)、利瑪竇は「天主実義」を著す。天主実義は、利瑪竇が儒教の経書を読み込む中でこれにキリスト教との親和性を見出し著した書物だが、その中で利瑪竇は登場人物の「西子」の言葉を借りて、


 我々の天主は、中国の古代の経書で上帝と呼ばれているものです。(第2編28章)


と語りつつ、こう述べている、


 思うに、堯舜の民であり、周公・孔子の弟子である中国の人々は、天に基づく道理や天に関する学を修めて、決して「誤った考えに」移り染まるようなことはなかったが、それでも中には「誤った考えに陥ることを」免れないものもいた。


 孔子は戦乱の春秋時代を憂い、人倫と治世のあるべき姿を古の周王朝に求めた。以来儒家たちは古代世界に理想を見出してきた。利瑪竇もまた、天に基づく聖道の行われた世界として古代中国を捉え、それを基督教と結びつけている。(※2) 


 徐光啓などの士大夫たちが耶蘇会士たちとの交友に留まらず天主教へ入信までした理由は、この天主実義に示された世界観にあった。明末の官僚だった馮応京(※3)は、天主実義にこう言葉を献じている、


 「この書物は我が国の六経の語句を次々に引用して、その説が真実であることを証明し………中国の説により中国を教化するものである……」


 また時代は下がるが、清朝の貝勒(皇族)だった蘇務の第三子で天主教徒であった蘇爾金はこう語っている、


 私は中国の書籍を十分に調べた結果、堯舜、禹湯文武、孔子孟子といったすべての賢哲ないし古帝王は、天の至高の主だけを敬い、仕えたこと、またこの儀式を彼らの統治の基礎として、第一のそして最も重要な行事として見なしていた事を認めた。(※4)





Part5に続く 




(※1) しかしもちろん、神の子イエスの死と復活という非理知的な信仰は、孔子の思想と明らかに矛盾している。リッチがキリスト教の根本的な教義を隠したまま布教を行っていたことからして、儒教と基督教の融合の難しさを示していると言える。事実、キリスト教の教義が明らかになっていくにつれて、多くの士大夫たちはキリスト教を荒唐無稽な迷信とみなしていった。

 ただし、リッチの目指した儒教とキリスト教の融合は、先に書いたようにギリシャ哲学とキリスト教との融合を試みたギリシャ教父たちの目指したものに似ている。もしリッチの思想が継続して中国に根付いていたなら、我々は現在のキリスト教とはまた異なる、東アジア的な基督教というものを眼にしていたかもしれない。


(※2) 中国における「上帝」は、殷王朝の自然神であり最高神の「帝」と周の太陽神であり人格神の「天」が、周王朝の時代に習合したものと言われている。天帝、もしくは天とも言われる(ただし詩経を読むと、天より上帝のほうが人格神的性格を持つように見える。天は言葉を発しないが、上帝は文王に言葉で語りかけている)。詩経大雅には「蕩蕩上帝」とあるが、儒教における上帝(天)は形なく、彫像で表されることもない。詩経を読むと、確かに「上帝・天」という概念は、キリスト教の神概念とどこか似ているという印象を私も持つ。しかしもちろん、部分的に印象として似ているだけであって、だから同じであるとは思えない。聖書は(雅歌は別として)一貫して「神」への信仰を中心に書かれているが、四書五経は基本的に「人」を中心に書かれている。


 ただこれは個人的な印象に過ぎないが、逆説的に、それ故にリッチの「上帝と天主は同じ」という言葉による両者の融合は、確かに欠けたピースを補いあうような不思議な現象も起こしている。カトリックにおける、見方をかえればカリバリズムと紙一重のような聖変化、アビラの聖テレジアの法悦や、腐朽体や聖遺物への信心、聖母の出現といった、東アジア的な知から見れば狂気と紙一重にも思える神秘性(もっともこれは密教をはじめほぼすべての宗教に共通しているが)が、儒教的な精神によって抑制され、また逆に形骸化した儒教に生き生きとした新たな生命を吹き込むような感がある。それが宗教的に正しいか間違っているかは私の知るところではないが、リッチの描き出した世界には、西欧のキリスト教にはない凛とした清々さがあるように私は感じる(単なる印象にすぎないが。。。王陽明がこの時代に生き、利瑪竇と語り合ったら。。。とも思う。また、内村鑑三の無教会主義にも、これに似た清々しさを私は感じる。)


 太平天国も天帝と天主を同じものとしたが、四書五経を焚書し儒者たちを殺害し、満州人を妖魔として虐殺していった太平天国と、儒教を学び孔子を敬したイエズス会士たちの間には、詩的表現として死語をあえて使うなら「文明と野蛮」ほどの開きがある


(※3) 馮応京は『月令広義』24巻、『皇明経世実用編』28巻を著した高名な学者でもあった。宦官陳奉の不正を糾弾したことで逆に投獄されたとき、利瑪竇の勧めにより天主教徒になったと言われる。ただし私はこの説には疑問を感じる。仏教を、儒教を軽んじるものと語る馮応京が、キリスト教の根本教義を知っても洗礼を受けたとは私には俄かには信じ難い。たとえ受洗が事実だったとしても、彼が信じたのは欧州キリスト教というより、利瑪竇の語るキリスト教だったのではないだろうか。


(※4)イエズス会士中国書簡集 「ヂャン公子がキリスト教に帰依するに至った動機」より 




カスティリオーネ Part3



 カスティリオーネの運命を変えていったイエズス会の「適応主義」は、キリスト教を、その外見だけ中国風に変えただけのものではなかった。古代ローマ世界においてギリシャ哲学とキリスト教神学を融合させていったギリシャ教父たちのように、イエズス会士たちは儒教とキリスト教との融合を試みていく。

 ただ、マテオ・リッチの書いた「天主実義」を読むと、彼は儒教の哲学的側面のみならず、詩経に記された上帝や文王をも大胆にキリスト教と結びつけている。異教とのシンクレティズムともとられかねないリッチの神学的解釈は、しかし15世紀イタリア•ルネサンスの哲学者マウリシオ•フィチーノの「詩的神学」にも似ている。彼ら新プラトン主義者たちもまた、リッチと同様に、古代ギリシャ・ローマの神話世界をキリスト教と結びつけている。(※1)

 

 そしてフィチーノの詩的神学がボッティチェッリの名作を生み出したように、リッチの適応主義はカスティリオーネの絵画世界を生み出していった。



Photo/Daisen


 もっとも、イタリアの一都市をフィールドとしたフィチーノたちとは違い、「教皇の精鋭部隊」とも言われたイエズス会士たちのフィールドは地球規模に及ぶ。彼らは新プラトン主義者たちのような「空想の旅人」ではなく、欧州をはるか離れた異世界に飛び込んでいった「現実の旅人」だった。

 

 日本では彼らのことをスペインやポルトガルの先兵のように語る人たちが多くいるが、彼らからすれば不本意な話だろう。たしかに彼らの、宣教のためには時に手段を選ばない姿はある意味マキャベリ的に見えるし、日本や中国がキリスト教国になるなら、たとえスペインの植民地になっても構わないと彼らは(少なくとも彼らの一部は)思っていたと思う。(それが不可能なことは彼ら自身がよくわかっていたのだが。)

 

 明朝の衰亡と清朝の勃興が明らかになりにつれ、イエズス会士たちは、あれほど漢民族の士大夫たちと交友していたにも関わらず、満州民族の清に大砲を売っている。

 イエズス会士たちは、日本や中国はもとよりスペインやポルトガルを含め、国家というものを宣教に利用しようとは思っていても、そこに忠誠を感じることはけしてなかった。彼らの忠誠の対象はあくまで神であり、そして教会と教皇にあった。教皇の精鋭部隊としてのイエズス会は、時にカトリック諸国の権益と対立し、南米では現地の人々と共にスペイン軍と戦う神父たちも出てきている。結果的に、こうしたことがイエズス会の解散へと繋がっていく。

 人は人を信頼し、人に感化される。宗教の教義を自ら理解し、人を介さず宗教に感化されるような人はごく稀だ。明清において、また戦国期の日本において天主教徒が50万人にまで増えていったのも、キリスト教の教義というよりは、まずは彼ら宣教師たちの人間的な魅力によるものが大きかったのではないかと思う。当時の欧州のカトリック教会において、また日本や中国のの宗教界においても、貴族や有力者たちの子弟によって構成された高位聖職者階級は俗化し、それぞれの宗教のあるべき理想からはかけ離れて「腐敗」し「堕落」していた。リッチより半世紀前のローマ教皇アレクサンドル7世の悪業は有名だが、日本においても信長公記等に書かれたように、比叡山や、また石山本願寺の僧たち、根来衆たちの俗化した有り様はよく知られている。

そうした中で、信仰の理想に燃え、妻も子もなく財産もなく、命の保証もない一年以上の船旅を費やして日本に渡ってきた彼らの姿は、当時の日本人や中国人たちには清々しく見えたのではないだろうか。

 そして、何の縁故も後ろ盾もない異国の地で、殉教を覚悟しつつ臆せず大名たちと渡り合う彼らの心のあり方は、戦国武将たちにも相通じるものがあったのだと思う。


 マテオ•リッチは多くの明の士大夫たちと交友を結んだが、彼らを魅了したのは「天主教」ではなく、欧州の科学技術だったとよく言われる。しかし、士大夫たちがリッチを信頼し友としたのは、そうした実利もさることながら、やはりリッチの人間的な魅力によるところが大きかったと思う。

  カスティリオーネも然りだ。カスティリオーネの人間性を示す資料はあまり残されていないが、清朝三代の皇帝からの信頼を得、厚遇されたのは、彼の絵の技量のみによるのではなかっただろう。



平安春信図 郎世寧 Wikipediaより



  乾隆帝の祖父である康熙帝の代から仕え、乾隆帝を幼い頃から知るカスティリオーネが描いたこの「平安春信図」は、彼ら親子の姿を実際に見ていたカスティリオーネの眼差しから生まれたものだ。それは、数多の名品・名作に囲まれて育った乾隆帝から見ても、心を打つものだった。単なる美辞麗句に満ちた絵なら、乾隆帝の心を打つことはなかっただろう。それが実際の親子の姿だったのか、乾隆帝が心に思い描いた父子の姿だったのかは別として。

 欧州人は、カスティリオーネが西欧式の絵画を描くことをやめて中国画に傾倒していくのを見て、「欧州の魂を売った男」と非難したという。カスティリオーネは司祭ではなく助祭であったし、確かに彼の絵からはキリスト教的な匂いは感じない。

 しかし、もし彼が画家としての名声を欲するだけの人だったのなら、イエズス会士として中国に渡ることなく、欧州で絵を描き続けていたのではないだろうか。また中国に渡ったとしても、先に書いたように早々に帰国する道を選んだのではないだろうか。

 私には、カスティリオーネの生き様の根幹にあったのは、やはり「信仰」ではなかったかと思う。神に信頼し、天命を信じ、命運を神に委ねて生きる、信仰者のものであったように私には思える。

 ただ、どのような信仰を持つにしろ、それがその人の「人間性」に還元されないのなら、それはただの教条主義や原理主義にすぎなくなる。

 私は、弾圧を受けた信徒たちが棄教するより、その殉教を願うような彼らイエズス会士たちの言葉に激しい憤りを覚える。棄教というものが信徒の魂の救済を永遠に失わせることを意味するものだとしても、日本人としてはこう問わざるを得ない、あなた方はいったい何のために私たちのもとに来たのか、善良な人々を死地に追いやるためか、と。

 しかし彼ら宣教師たちの多くも、信徒たちと共に殉教している。財産を持たず、妻も子も持たず、二度と故郷を見ることのないであろう遥か東方の国へと彼らを向かわせたのは、スペインやポルトガルといった「人間の王国」に対する忠誠心ではないし、貿易で一攫千金を得て栄耀栄華な生活を送ろうという夢でもない。彼らが追い求めたのは地上の栄華ではなく、人の目には見えない「神の王国」だった。



※1

ただし天主実義を読むと、「詩的神学」とは異なり、リッチは詩経の上帝と基督教の天主を全く同じものだと主張しているように見える。これが問題の根を深くし、後の典礼論争につながっていく。


Photo/Daisen

追記

 もろん、今日のヒューマニズムの視点から見れば宣教師たちの行為には非難すべきことも多い。そして中国や日本の多くの無辜の信者たちを死地に追いやった彼らの責任を、殉教の美名のもとに賛美するカトリック教会の姿勢にも、私は日本人として違和感を覚える。中国においても日本においても、宣教師たちは外からやってきた訪問者であり、当初は客人として迎えられた。彼らはそれぞれの地の事情を知りつつ宣教していたのだから、悲劇の責任はそのほとんどが彼らにあるといえるのではないか。繰り返しになるが、宣教師たちの倫理観からすれば、棄教が、人の魂の救済を永遠に失わせることを意味するものだったとしても。

 もしも、東アジアにおけるキリスト教弾圧の非人道性を強調する人がいるなら、私はその人に一つだけ問いたい。もし当時の欧州に仏教の僧侶が伝教に向かったなら、欧州の権力者たちはどのような態度で彼らを迎えただろうか、と。門前払いは当然のこととして、もしもマドリードでスペイン人の仏教徒たちが見つかりでもしたら、どうなっていただろうか、と。異端者やユダヤ人に対して彼らが行ったことから推察して、東アジアで行われたよりもっと残虐な歴史が今に記されていたのではないだろうか。

 ただし、宗教というものが、国家という共同体の構造を維持するための「装置」としてどのように位置付けられ、機能していたのか(もしくはしているのか)を考察したなら、宗教弾圧は洋の東西を問わず、人間の共同体の中で必ずおきる問題だと私は思う。(これは、思想•イデオロギーの問題に関しても同様だ。)


 そして同時に、スペインによる大航海時代から帝国主義の時代に至る一連の流れをもって欧米人を、そしてキリスト教を非難する人々に対しも、私は一つだけ問いたい。(それは私自身に対しての問いでもあるのだけれど。)

 欧州人は地球の丸さに気づき、ラテン人たちは命を懸けた大航海の果てにそれを実証していった。欧州の帆船は地球を東周りにアフリカを周り、インドに、東南アジアに、日本に、中国に到達し、西周りにアメリカ大陸に到る。宣教師たちは未知の世界の奥深くに足を運び入れ、そこに何があるのかを細かく書き記していった。

 

 そして欧州の帆船はいつしか黒煙を吐く巨大な鉄の船になって、彼らの艦隊が世界の海を制覇していく。

 その時、私たち日本人や中国人は何をしていたのだろうか。欧州人が何世紀にもわたり外へ外へと船を繰り出していくなか、我々は何をしていたのか。

 私たちは扉を閉ざし、鍵穴から世界の様子を伺っていたのだ。それがけして悪いというわけではないが、欧州人の植民地支配や帝国主義について怒る時は、我々のその、何世紀にもわたり内向きだった姿も思い出すべきなのだ。

 

 倫理の問題ではなく、その時、その時代の文明が持つ「パッション」の問題として。

 孫文は、列強によるアジア侵略を単に非難するのではなく、こうも語っている「我々は眠っていたのだ」と。そして「目覚めよ」と、中国人に語りかけた。‥‥目覚めるとは何か、どのように目覚めるか、また今の我々は本当に目覚めているのか、その問題は別として‥‥。

 ちなみに、よく知られている通り孫文は基督教徒でもあった。

 

藤島大千


神々の十字架 カスティリオーネ part4


神々の十字架 カスティリオーネ part2


神々の十字架 カスティリオーネ Part1



短編ドキュメンタリー映画「Roots of the Emperor」の上映会です。私の卑弥呼の絵がチラシに出ていますが、本編にも使われています。

監督は、新進気鋭の岡元雄作監督。(ちょうど今、U-NEXTやHulu、Apple TVなどで岡元監督の「恋愛終婚」が配信されています。)


邪馬台国というと九州か近畿か、というのが定説ですが、このドキュメンタリーでは「邪馬台国は四国(阿波)にあった」という説が語られています。

ふとしたご縁で、この映画を作られた鈴木富佐江さんと知り合い、拙作の「卑弥呼」と「臺與」をとても気に入っていただき、ドキュメンタリー内で使いたい、というお話をいただきました。

父の故郷である徳島には子供の頃から何度も訪れていますが、阿波(徳島)は、山の形が本州とは全く違います。切り立った山々は広葉樹に豊かに覆われていて、丸くこんもりしたその姿は、大和絵に描かれる山そのものです。厳しく、おおらかで、そして優しい。紅葉の時期になると、まるで折り重なる錦の着物の中に迷い込んだように感じます。

 阿波の自然は、日本人の心の中にある原風景そのもののようにも、私は感じます。その自然に抱かれると、弘法大師がここを霊場に定めた理由も、古事記で九州や本州の前に四国が作られた理由も、分かる気がします。

 邪馬台国阿波説は、鈴木さんから伺って初めて知りましたが、四国には縄文時代からの遺跡も多くあり、魏志倭人伝に記された「丹を産する山(若杉山辰砂採掘遺跡)」もあるとのことです。阿波の山々の中に抱かれた邪馬台国、というイメージには、画家として、とてもロマンを感じます。

※この短編は、新約聖書ヨハネ伝の逸話を元にした創作です。


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罪なきものこの女に石をなげうて(前編)





「この女は姦淫の罪を犯した!」

 

 夕陽の差し込むエルサレム神殿の柱廊に、角笛のような若いラビの声が響きわたった。彼はテフィリンを結えた右腕を高く掲げ、大声をはりあげながら柱廊の中を歩いてゆく。


Drawing / DaisenFujishima

 

 「この女は姦淫の罪を犯した!」

 

 そのラビの後ろを年配のラビたちが続き、その後を大勢の男たちが、一人の女を取り囲むように歩いている。女は両手を荒縄で縛られ、顔には麻袋を被せられて、乱れた下着の上にローマ兵の大きな赤い外套を羽織らされている。紐のちぎれた革靴を血の滲む足で引きずりながら、二本の杭のようにこわばる脚が動かなくなるたびに、周りの男たちに背中を叩かれ、前へと突き動かされていく。

 参拝のために身を清め身なりを整えていた人々は、顔を歪めて彼らに道をゆずり、女に侮蔑の目を注いだ。

 

 「この女は姦淫の罪を犯した!」

 

 彼女は、麻袋の中で短い呼吸を繰り返しながら、ラビが張り上げる声を聞いていた。

 『お前はこれから石打ちの刑に処せられるのだ』と、彼女を捕らえた時、ラビはゆっくりと麻袋を被せながら言った。視界が覆われる一瞬、彼の背後の男が口元に笑みを浮かべるのを彼女は見た。

 

 「この女は姦淫の罪を犯した!」

 

 息苦しく朦朧とするなかで、今、自分はどこを歩いているのだろう、と、彼女は思った。あの時、母親と手を繋いで歩いたソロモン王の柱廊なのか、それとも父親の手を振り解いて駆け出した広場のなのか‥‥‥。彼女は幼い頃、両親と一緒にエルサレム神殿に初めて訪れた時のことを思い出していた。陽光に輝く壮麗な神廟は、天と地を結ぶエデンの園を顕しているのだ、ここが世界の中心なのだと、父親は誇らしげに語っていた。

 自分は今、穢れた姿でその「エデンの園」を歩いている。ラビは言った、『お前は神の法に叛いた。けして許されないことをしたのだ。』と。そうだ、神の法に叛いたのだから、もう神に祈ることはできない。私は一人だ。私にはもう、どこにも逃げる場所がない。天も地も、この世界の全てが、私が消えることを望んでいる‥‥

 

 「この女は姦淫の罪を犯した!」

 

 ‥‥彼は、故郷に妻子がいることを隠していた。 ローマ兵を愛することがこの国で何を意味するのか、私は覚悟して彼を愛したのに‥‥‥私をローマの都に連れていくと言ったのに、私を守ると言ったのに‥‥‥彼は剣を振るうこともなく、裸同然で連れ出される私を、ただ呆然と見ていた。そして自分のために、私を捨てた。

 私は一人だ。一人で死んでいく。人々の憎悪の中で、神の怒りの中で。

  

 

 ラビは、柱の台座に座り人々に話をしているイエスを見つけ、近づきながら大声で呼んだ。

 

 「 ラビ・イェーシュア!」

 

 イエスが振りむいて立ち上がると、若いラビは胸に手を置いて慇懃に一礼し、イエスを囲んでいた数人の弟子たちと柱廊の人々に向かって声をはり上げた。

 「我々はこの女を姦通の現場で捕えた!」

 彼は男たちに手を振り、彼女をイエスの前に引き出した。

 「私と、ここにいるラビたち、そしてこの男たちが証人だ。神がモーセに与えし法によれば、姦淫を犯したものは石打ちの刑に処すと定められている。     ラビ・イェシュア、あなたはこの女をどうする? 教えに従い、この女を石打ちにするか、それともしないのか。我々はあなたの裁量に従おう。」

 

 ラビは女の頭から麻袋をとって投げ捨てると、背中を突いてイエスの方へ歩かせようとした。女は顔を隠そうと両手を上げたが、男の一人がその手をはたき落とし、また背中を強く突いた。彼女は操り人形のようにぎこちなく数歩あるき、糸がちぎれたようにイエスの足元に座り込んだ。

 

 どこからともかく笑い声があがった。

 

 石打ちの刑というのは、身動きをとれなくした罪人に、群衆が石を投げつける処刑法だ。ほとんどの罪人はそれで命を失うが、たとえ死ななくても、深い傷と障害が残る過酷な刑罰だった。ただし、 ローマ帝国の施政下にあったイスラエル王国では、ローマ法以外での死刑が禁じられていた。だからいくら律法にしるされていても、ラビたちは暗黙の了解のもと、これを公には口にしなかった。石打ち刑が行われる時は、密かに、裁判もなく、民衆による私刑の形で行われた。

 

 ラビたちにとって、この女のことなどは本当はどうでもいいことだった。女は殺さねばならないが、彼らの目的は他にあった。イエスを民衆の面前で貶めることだ。 イエスが女を助ければ、公然と神に叛いたことになる。助けなければそれまでのイエスの言葉、「愛」と「許し」を否定することになる。もしイエスの言葉で女が死ぬことになれば、イエスローマ総督に告訴することもできる。どちらにしろ、どう転んでも、イエスを貶めることができるのだ。そしてこのエルサレム神殿での出来事は、イスラエル中の人々が話題にすることになるだろう。

 

 彼らにとって彼女は、イエスを貶めるためのただの道具にすぎなかった。

 


後編に続く