※ この短編は、新約聖書ヨハネ伝の逸話を元にした創作です。
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罪なきものこの女に石をなげうて(後編)
『こんな姿でこのままここにいたくない。』彼女はそう思った『早くわたしを殺して欲しい。。この世界から、今すぐ、消えたい。。。』
Daisen Fujishima
イエスは黙ったまま、指で地面に何かを書きはじめる。彼女は凍えた目でイエスの指先を見つめた。石畳の上には何も跡は残らなかったが、何度も繰り返すその指の動きから、もしかしたら杉の木の絵かもしれないと、彼女はふと思った。なぜそんなものを描いているのかわからずに戸惑っていると、イエスは今度は小さな円を描き、その周りにも円を描いていく。『小さな花。。』彼女はふと、幼い頃に亡くなった母親がよく口ずさんでいた子守唄を思い出した。
“レバノン杉の根の上に
白い小さな花さいた。。。“
「先生、さあ、どうするのだ? この女を石打ちにするのか、しないのか!」
ラビは群衆に向かって、そしてイエスに向かってたたみかけるように声を上げた。
イエスは再び小さな円を描き、そして子鹿の絵を描きはじめた。
“小さな花を摘まないで
摘まないままでおいたなら
小さな赤い実がなった
その実を子鹿が食べに来た。。。“
『ああ、やっぱりお母さんの唄だ。。。』
震える彼女の手が、戸惑いながらイエスの指の跡をなぞっていく。
「ナザレのイエスよ! どうするのだ! 石打ちにするのかしないのか!」
何事が起きたのかと、境内の人々がどんどん周囲に集まってきた。女への怒りの言葉を口にする者、口元に侮蔑の笑みを浮かべながら隣の人に話しかける者、誰かを呼ぼうとかけ出すもの、悲しそうに女を見つめる者‥‥様々だ。
イエスはたちあがって無言のままそのラビを見た。そして集まってきた人々を見回して、律法学者たちを、石をこれみよがしに高く掲げている男たちを見て、憤りを含んだ大きな声で、
「お前たちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石をなげつけるがいい!」
と言った。そしてまた彼女の傍に座り、何かを地面に描き続けていく。イエスの横に立つ一人の少年が覗き込み、他の弟子たちに向けて訝しげに顔を横に振った。
イエスは子鹿の頭に角を描きたしていく。見つめていた彼女がつぶやいた。
“子鹿の角に 花さいた
たくさん咲いた白い花
みんな真っ赤な実になった
赤い牝牛の血潮より
真っ赤な真っ赤な実になった“
ラビは、怒りを含んだイエスの声に一瞬後退りしたが、すぐに口の端を上げ、怒りとも笑みともつかない表情を浮かべて手を振った。それは女を神殿の外に引きだして石打ちにしろという合図だった。石を掴んだ腕を高く掲げていた男たちは、しかし顔を見合わせ、そして集まってきた群衆を見た。
「罪なきもの」とは、ここでは「姦淫の罪を犯していないもの」という意味だ。律法においては男女に関わりなく、姦淫を犯したものは死罪と定められていた。そしてここはエルサレム神殿だ。罪を犯した者が「私は罪を犯したことなどない。」と宣言すれば、それは神への偽証、冒瀆になる。そしてことの一部始終を見ている大勢の人々が、その「証人」になる。ここにいる男たちは、女たちとの関わりを、酒に酔ってはあたかも武勇談でも語るように語ってきたものたちばかりだった。
男たちは年長者から一人、また一人と、手にした石を床に置いた。そして人目を避けるようにその場を去っていく。
女を連れ出さず去っていく男たちを、若いラビは呆然として見ていた。何が起きたのか彼にはわからなかったが、年長者のラビたちには理解できた。彼らは目を見合わせ、若いラビに近づくと「残念だが、あなたの計画は失敗した。また次の機会を考えよう。」と小声で言った。ラビは怒りに燃える目をイエスに向け、男たちが置いた石を拾い、握りしめた。
このラビにとってはイエスも女も同じ、神を冒涜する穢れた存在だった。自己保身のためにイエスを貶めようとするものたちもいたが、若い彼を突き動かしていたのは激しい信仰心と正義感、そして愛国心だった。このラビも、最初はイエスの教えに感服していた。あり得ない奇跡もその目で見た。イエスが「私はアブラハムよりも前にいた。」と語っても、この人の真意は他にあるのではないか、彼は本当にイスラエルを救う救世主なのではないか、と思いもした。しかし、侵略者であるローマ帝国の兵士をイエスが癒すところを目の当たりにし、敵であるローマ帝国の人々をも愛せと語るイエスを見て、期待は激しい怒りに変わっていった。
『この裏切り者を、売国奴を、神の名を汚すこの男を、このまま生かしておくわけには行かない。』彼は石を握りしめたまま、『必ず殺してみせる。』と心に誓ってその場を去った。
柱廊に静けさが戻り、後に残されたのはイエスと彼女、そして弟子たちだけになった。
イエスは身を起こして言った。
「彼らはどこへ行った? あなたを罰するものはいなかったのか?」
彼女は言った
「。。だれもいません。。」
二人の傍らを、神殿に灯りをともす人々が通りすぎていく。
イエスは頷き、微笑んで穏やかに言った。
「私もあなたを罰しない。行きなさい。今後はもう過ちを犯さないように。」
イエスの傍に立っていた少年が彼女の手をとり立ち上がらせ、イエスから「ヤコブ」と呼ばれた弟子が彼女の手の縄を解いた。彼はローマの外套の上に自分の着ていた外套をかけ「先生からあなたを家へ送るように言われました。」と語りかけて、自分の腕の上に彼女の手を添えた。彼女は少年と弟子に支えられながら数歩あるいて、立ち止まり、嗚咽をあげて泣き出した。少年が困ったように彼女の顔を覗き込む。「ヨハネ、」とヤコブが少年に言った。「婦人の庭にいるマグダラのマリアを呼んできなさい。」
彼女は振り返ってイエスを見た。イエスは彼女に背を向けて、他の弟子たちと何かを話している。その背を見ているうちに、彼女の心が少しずつ静かになっていく。深く息をすると、彼女はまた歩きはじめた。
彼女の震える口から、しらずに母親の子守唄がこぼれ落ちていく。
愛しいラハブ 私の子
真昼の星が アラバの海に
落ちても あなたは泣かないで
愛しいラハブ 私の子
アララト山より 西海が
高くなっても泣かないで
私はあなたを抱きしめる
愛しいラハブ 泣かないで
ヨシュアの紐を結ぶ夜に
私はあなたを抱きしめる
END
この女に石をなげうて 前編



















