負けちまった。
まぁいいや。
相手は相当、試合慣れしていて、テクニックがうまく、当然のように優勝していた。
しかし「人を倒す能力」という意味で強かったか?と問われると・・・うーん。
こっちは痣ひとつできてないしなぁ。息も乱れていないし。
またこちらの突きと蹴りは当たっていたが、相手の攻撃は私に当たっていない。
相手の動きに慣れてきたところで試合が終わってしまった。
しかしまぁ試合なので、勢いがあるように見える方が勝者となる。
それが実戦ではない、試合というものだ。
試合で優勝はできるけど、相手には痣ひとつすら与えられない空手・・・そういう空手を私は求めていない。
もちろん優勝は素晴らしい。
それに彼は優勝するための努力を重ねてきただろう。
まったく、素晴らしいことであるし、賞賛に値する。
しかし私は、そういう空手には興味が無い。
私が思う空手は、その拳で突かれたら骨が砕け、蹴られたら内臓が破裂する、倒れる、死んでしまう・・・というものだ。
それが空手じゃないのかと、あくまで私個人の主観ではそう思う。
フルコン空手で以って、動きが速い伝統派の空手家にも、顔面パンチの専門家であるボクサーにも、接近戦で必殺の投げをもつ柔道家にも、優れた近代格闘技のキックボクサーにも、実戦(=路上での護身)で勝てなければならないのだ。
上地流の新城清秀先生ほど鍛えるのは難しいとしても、そのための鍛錬を怠らず、そのための意識は常にもっておかなければならないだろう。
大山総裁が試合を始めて以来、フルコン空手は現代において、競技として成熟してきた。
そのため、ルールのなかで勝ちやすいパターンが編み出されている。
結局は審判に与える印象が良いほうが勝者となる。
実戦とはまったく異なるスポーツだ。
流派の運営と存続という観点からも、試合の開催が重要だということも理解できる。
そして空手がまた今回も、オリンピックの追加種目として選考に残っている。
私が所属する流派はどうやら賛成よりな感じがするし、私がもっとも尊敬する緑健児氏も、空手のオリンピック種目化を悲願とされている。
しかし私は大反対である。