第58、59話『生物多様性』『値段』+『【鏡音リン】炉心融解』を読む・最終回
昨日サボったので、きょうは2本描きました。
恐竜くんとあまり関係ない話
『【鏡音リン】炉心融解』を読む・最終回
~まとめ~
これまで8回にわたって『炉心融解』というボーカロイド作品を取り上げてきました。
この作品に出合って、まず率直に思ったのは、
「自分が10代の頃に出会っていたらハマったかも」
ということです。
でも、
「やっぱりハマらないかも」
と思ったのも事実です。
加えて、
「今ハマってる人たちはどんな感じの人だろう」
ひいては、
「今ハマってる人たちはこれからどうなっていくのだろう」
と、思います。
「そういう人たちとワタシはどう付き合っていくだろう」
となる。
『炉心融解』は、全体的に暗い世界を描いた作品です。しかし、「暗さ」には実はあまり意味がないのではないか。問題は、「中身がない」ことにあるのではないか、というところが少し見えてきた気がします。実際、歌とかでもJ-POPなど、大体、中身無いですね。
中身が無い方がよい(人気が出る、流行る)。
「『炉心融解』は何も言っていないのと同じだ」とワタシは書きましたが、実はそちらの方が正解なのかもしれないということです。
「なんか言ってたらウザい」
という。
これでしょう。現代日本社会の、基本的な構造が、ここから見えるような気がします。
いや~、どうなんでしょうか?
終わり
*補足
これを書いて、見直したら、なんとなくこういう結論ではいけない気がした。
「なんか言ってたらウザい」
の先には何があるでしょうか?
「やっぱりなんか言ってほしい」
んでしょう。
みんなそう思ってるんではないでしょうか。
あと、
「すごいなんか言ってるかのように見える」
でも、言い方が、お決まりのパターンしかない。
とかね。
なんかもっと、無いのでしょうか?
第57話『収穫』+『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第7回
恐竜くんとあまり関係ない話
『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第7回
~死と論理~
今回も見ていきます。死についてです。
核融合炉にさ
飛び込んでみたら そしたら
きっと眠るように 消えていけるんだ
僕のいない朝は
今よりずっと 素晴らしくて
全ての歯車が噛み合った
きっと そんな世界だ
●つまり、自分が死ねば、「全ての歯車が噛み合った」世界になる、というわけです。

養老孟司の『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998)という本には、こんな記述がある。
われわれの脳はいつも同じものではない。絶えず変化しているのである。脳が世界を造っているにしても、それはつねに変わる。哲学者がそれが嫌で、静止した、永遠の真理が欲しいと言うのであれば、死ねばいいのである。(p.40、l.5)
死んで、脳がホルマリン漬けになる。そこには静止し、閉じた、論理的整合性を持った世界があるのだと養老は言うわけです。
『炉心融解』の意見はまさにコレに他ならない。哲学だったんですね。
つまり、論理的整合性を突き詰めると、死が理想になる。
とってもコワ~イ。
論理的整合性にこだわりがちなのは人間、誰でもそうです。
でも、養老に言われるまでもなく、人間も世界も論理的に整合性とれてはいない。ワケわからん。
そう思うので、ワタシは死にません。
次回に続く
第56話『百円』+『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第6回
恐竜くんとあまり関係ない話
『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第6回
~ダダをこねる表現~
今回は、表現の方法、姿勢について考えたいです。
基本的には、『炉心融解』は、うまく若者の心情を表現していると思いますが、ワタシにとっては違和感とか嫌悪感があるのは事実なのです。そこを少し書いておきます。
「核」の扱い方について。
核融合炉にさ
飛び込んでみたいと 思う
真っ青な 光 包まれて奇麗
「飛び込んでみたい」「奇麗」というわけです。
まず、前提条件として、
「核は危ない」
「核は怖い」
がある。で、これをひっくり返しているだけのような気がする。
ワタシは、そこにものすごくなにかイヤらしいものを覚えるのです。
「原子炉が奇麗」とか言われても、「はあ?」と思う。
常識外れのことをいきなり言われれば、こう胸がぐっとなります。裏切られるからそういう気分になります。でもそんなのは感動じゃない。やさしさがない。言葉の暴力とかに近い。そう思う。
ちゃんと自分の考えを言っていない。「世間ではこう言われている」ことの、あえて逆を言っているだけなのです。だから、なにも言ってないのと同じなのですよね。写真で言うと、ポジをネガにしているだけ。
これは子供がダダをこねるときの論法とまったく同じ構造を持っているので、これをワタシは、「ダダこね型の表現」ととりあえず呼んでいます。シニシズムとかスノビズムとか他になんか言い方がありそうなのですが。
今の日本の若い人の表現に、これが非常に多いと思っています。
ワタシは、「他人が言ってることの逆を言うだけ」の「あまのじゃく」のようなモノの言い方のダダこね表現ではなく、自分自身のモノの言い方というのがもっと他にある気がするのです。
次回に続く
第55話『会議』+『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第5回
恐竜くんとあまり関係ない話
『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第5回
~原子力を考える~
*今回は、難しいテーマで考えすぎたため、あまり文章としてまとまってません。
この歌では、原子力はフィクションとして描いている。
核融合炉にさ
飛び込んでみたいと 思う
真っ青な 光 包まれて奇麗
こんな感じですからね。実際のリアリティからは程遠いものとして、「核」というモノが出てくる。いや、モノよりも「コト(頭の中の抽象的な概念)」の一つと言ったほうが正確か。
フィクションとしてではなく、こう、もっと現実的に原子力を描いた例としては、ポップミュージックでいくと、
RCサクセション『サマータイムブルース』
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
せまい日本のサマータイムブルース
などがある。これは、やっぱり「原発反対」という風になる。
『炉心融解』には、原発反対的なニオイは全く無い。フィクションとして描いているからだと思います。まあ、戦略的に「反対していない」のだと思うのですが、それはまたの機会に。
ただ、いわゆるフィクションとは違う気もするのです。かつてのSFなどでは、やはり原子力に対するアンチテーゼという意味合いが強かった。手塚治虫のマンガなどはそうですよね。なにせ、日本は原爆が国土の上空で炸裂した国です。戦中派の手塚治虫には激しいリアリティが、あったと思う。
最近は「戦争を知らない子供たち」がもう僕らの親の世代になっている。核や原発のリアリティからは遠ざかっていたと言わざるを得ないでしょう。
また、滅びに対する憧れというのもあります。出来ればそのための手段の一つとして真っ先に浮かぶのが、核。
早くこの世が終わってほしい。『新世紀エヴァンゲリオン』などでもそういう気分が全開でしたね。ワタシは、そういうのに飽き飽きしているのです。
で、今回の地震における原発の事故はリアルに起きたわけです。そこからどうなるか?
僕らは、「原発を知っている子供たち」です。(子供か?)
これからの世の中の流れはどう変わって行くのでしょうか?
でもワタシは実は、「あんまり何も変わらないんじゃないか」と思っています。
なぜか?なんとなくですけどね~、どうなんでしょう?やっぱ良く分かりません。
次回に続く
第54話『朝と夜』+『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第4回
恐竜くんとあまり関係ない話
『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第4回
~関係性、僕と君~
今回は、「関係性」を考えてみます。
これは、すぐにわかることですが、この歌において、いわゆるわかりやすい形での他者への共感、やさしさ、思いやりなどは見られない。
君の首を締める夢を見た
光の溢れる昼下がり
君の細い喉が跳ねるのを
泣き出しそうな眼で見ていた
「泣き出しそう」と言うからには、「共感」があることは事実ですね。実は相手をかわいそうと思っている。こういう風な形で、共感が描かれる。かなりひねくれているというか、ねじれているというか。このねじれ方については、べつの機会に考えます。
君の首を締める夢を見た
春風に揺れるカーテン
乾いて切れた唇から
零れる言葉は泡のよう
「言葉は泡のよう」というのに引っ掛かります。また、
真っ白に 記憶 融かされて消える
誰もみんな消えてく夢を見た
なども同様のことが言えるのではないか。それは、「関係性の無化」と言えるのではないか。要は、人間関係がイヤなわけです。で、それを終わらせたい。で、核融合炉に飛び込みたいとなるわけです。
こういうのを見ると、「何か楽しいことは無いのか」と思いますね。また、友人との熱い関係は無いのかと。ここらあたりに、現代っ子の寂しさがあるのです。
次回に続く
第53話『さか立ち』+『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第3回
恐竜くんとあまり関係ない話
『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第3回
~自己と身体~
さて、今回は「身体」という観点から見てみます。
一番の歌詞から
オイル切れのライター
焼けつくような胃の中
全てがそう嘘なら
本当に よかったのにね
胃の中、自分の「おなか」ですね。はっきりとした胃の感覚って無いですが、「胃が痛くなる」は普通に言いますね。アレは本当に胃の感覚なのでしょうか?
「オイル切れのライター」って何でしょうか?タバコ吸う人にはピンと来るのでしょうか?ワタシは吸わないのでわからないですが、どうなんでしょう。
そして、何と言っても次の歌詞が面白い。
誰もみんな消えてく夢を見た
真夜中の 部屋の広さと静寂が
胸につっかえて
上手に 息ができなくなる
息をするのは、大体無意識ですが、なにかしらこうグッと来た時に息がつまったりしますね。
ここには、自分自身の身体を自分自身でコントロールするという思想がやっぱりある。ダイエットなどはその典型ですよね。
それに加えて、この「上手に」というのが面白い。はっきり言って、別に息なんか上手にせんでいい。。誰も上手にしろなんて言ってない!
そういうのを社会が求めているかのような気がするのは確かです。でも開き直りましょう。
オレは下手くそに息をして生きるのだと。
基本、大概の事は下手くそでいいんですよ。そう思います。
息を「上手に」しようとしているとすれば、それは滑稽そのものです。
そう考えると、「ダイエット」なんていうのも、なんだかギャグじみて見えてくる。笑ってしまいましょう。
第52話『やっぱり』+『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第2回
今日は久しぶりに雨でした。
恐竜くんとあまり関係ない話
『【鏡音リン】炉心融解』を読む・第2回
すこし、この曲を読み解きつつ、現代日本の若者である自分の位置を確認することを目指しましょう。
~朝の不在から見る「僕」と社会との距離感~
以下、歌詞からの抜粋。
眠れない午前二時・・・
光の溢れる昼下がり・・・
拡散する夕暮れ・・・
真夜中の部屋の広さと静寂が・・・
このように、具体的に時間を表現している部分を抜き出して並べると、「朝」がきれいに抜けていることに気付く。
が、しかし単語としての「朝」は曲の最後にガツンと出てくる。
僕のいない朝は
今よりずっと素晴らしくて・・・
きっとそんな世界だ
ここでは「朝」は、「きっと・・・だ」という仮定によってのみ考えられている。
「僕」と「朝」との間には、距離がある。
これにはものすごくリアリティがあると思うのです。
まあ、単純な話で、ひきこもりの少年、少女は昼まで寝ているからです。
かつての私自身には、「朝」に対する憧れと、恐れがありました。そう思います。
これは多分、社会一般に対する距離の取り方の問題なんだと思います。自分は、ひきこもりと言われる状態になり、「普通ではない、逸脱した存在」「世間から排除された存在」になった。世間様に顔向けできない、おそらくそこから、「お天道様に顔向けできない」という強い意識が生まれます。結果、昼とか夕方まで寝るのです。
「朝」は自分の居場所ではないと思っていました。
この作詞者はそこを見事にえぐっています。
はっきり言って素晴らしいです。
次回に続く










