古い話ですが2007年9月2日にこの世を去ったやつがいまして、今年で満17年。mixiで書いた日記が残ってたからそのまんま掘り起こすことにしました。


2007年9月6日1:39mixiにアップした日記

この文章を河上健太と言う男に捧げます。

 君とは、大学のサークルの先輩後輩と言う関係でした。まあ、言うまでもないことだけど、「年上の後輩」という複雑な状況に悩んでいた事を今も覚えています。小さな悩みだったけど、現役で合格した人間にとっては1つ年が上の同期の奴とどう接していいか分からなくて、そんな奴等に囲まれた1年の時は基本『君付け』でした。それを乗り越えた2年目に君がやってきました。

 最初に覚えている思い出は、98年6月の事でした。当時、東松山校舎でのサークルのリーダーだった俺は行われていた小さな学園祭である六月祭中に君達の代のハトリ、タカハシ、サトウ、コバヤシの大量離脱があったことを覚えています。それは、離脱して行った連中が君の掛け持ちをしていた映画サークルに集中する為とかの理由でした。打ち上げの時に、君らの代出来たのはナカヤマしかいなくて、『ああ、カワカミが誘ったせいであいつ等は辞めていく。勿論カワカミも。ナカヤマだけになっちまった』って絶望に立たされていて、サークルを移籍してやろうと思ってました。でも、結果、君はここに残っていました。そして、その映画サークルはその後一回も活動していませんでした。あいつがいたからこそ続いていたのかもしれないなんて思ってます。そんなにメインな思い出でもないのに、最近はよく思い出します。

9/2(日)、君のお父さんから電話が来たよ。お父さんから電話が来てるという時点で嫌な予感はしていたけれども、微かに『あいつ結婚するのか?』なんて思ってた。それはライブの後だったから、GANGA ZUMBAって言うお前の音楽趣向とは程遠いけれどもかなりいい曲を作ってるドリームチームみたいなバンドの曲を聞いた後だったから、あの落差は無かったよ。ちょっと話をしてお父さんの言われる前から覚悟は決めていたつもりだったけれども、話す言葉は変だったって一緒に行った人に言われたよ。

動揺はしてたみたい。事故死なら落ち着いてたか?って事もない、でも自殺って俺にどう説明付けていけっていうんだよ。でも、そこからはお前の中の良い奴に伝えなきゃいけないって変に冷静になれた俺がいた。去年の3月に爺ちゃんの死に際に間に合わなかったけど、生と死の境目を見てたから、その経験が生きてたみたい。

昨日までの三日間、お前とつながりの深い奴に声を掛けたよ。少なすぎてショックだったろ?その程度じゃないだろ、俺もそう思ってる、お前を見送ったのを境に色んな奴に話をしてるよ。俺が最初に聞いたその話、みんなリアクションは同じだったよ。
『みんな、言葉なんて出なかったよ』
大学時代を知らないお父さんの為に、最近開けてもいなかったビデオラックをあけた。8年前のあの夏に作った映画作品をダビングしながら夜2時まで見てしまったよ。懐かしかったよ、あそこには俺達が見てきた壊れる前の板橋校舎があった。今となっては歴史的な映像作品になってたよ。これを親父さんだけでなく大学当局にも渡したいくらいだよ。これだけじゃ物足りないので、お前がやって来た大学時代の作品を集めて親父さんに見てもらうつもりだよ。そして、それをお前を遅れなかった大学のみんなにも見て貰おうなんて考えてる。あれだろ、定職就いてないからって狙って俺を指名しただろ?まんまとお前の期待に乗っかってやろうと思ってる。

1ヶ月しかなかったAD生活の時も、お前に励まされた。こんな事になるならお前から貰ったメールとかを保存して置けばよかった。それ位勇気付けられる言葉だったのにな。俺が辞める事で終わっちまったけど、また仕事したかったな。今度はお金がもらえる仕事だったのにな。仮に続けていたら、お前は死のうなんて考えなかったのかもしれないな、なんて事を葬儀中に思ってたよ。あと、8月中に飲み会やろうとか誘っておけば良かった。それきっかけで、お前を踏みとどまらせていたのかもなんて思ってたけど、そんなことは「たら・れば」だから。野球と一緒だな。

結構泣いたよ、昨日まで、詳しくはこの前の文章を読んでくれ、まだ受け入れられない自分がいた。だから、告別式のときは泣けてなくて『涙も枯れたんだ』って思ってたけど、最後のご対面の時は、緊張して脈拍が上がって、気付いてたら泣いてたよ。現実との対面でもあるからね。久々だよ、肩で泣いたの。無理だよ、お前の死を受け入れろなんて。思い出して書きながらやっぱ目が潤んでる。目を瞑っていたから見えていないだろうけど、みんな泣いてたんだぜ。お前の棺に花を手向けて、棺の中のものを見てその先にはお前の顔があった。良かったな、髭は剃られなかったんだな、そういうのを白装束切る前に剃られたりするけど、無かったらお前らしくないと思ってたからあってよかったよ。でも、最後は金髪だったんだな、似合ってなくて『所ジョージみたい』って思ったよ。お前が生きてたら、絶対言ってやったのに。

映画では監督をやり、冊子作りではパソコンを中心的に操り人の文字を打っていた、社会人になってからはテレビディレクターとして情報を操り、常に俺の中でお前は裏側にいた。そんな奴の最初の主演舞台が死に化粧をした場所になるなんてな。花に囲まれた棺を見たけど、物凄い血色の悪い顔をしてた。老人と比べられたくないだろうけど、一番死人らしい顔をしていたのは享年29歳のお前だった。死に方って顔に現れるのかもな。

お前が愛していた弟は泣いてたよ。本当は、弟に「自殺って言う死に方は駄目だと思うかもしれないが、お前の兄は生前誇れるような生き方をしてたぜ」って伝えたかったよ。でも、過去2回参加した告別式はどっちもお爺ちゃんので、火葬場まで行ってたから火葬場まで行くもんだと思ってたよ。大きな勘違いしちゃってた。だから、お父さんにも挨拶し忘れてた。今度はお前の家に行くかもしれないな。

29歳で死にやがって、多くの人を泣かせて、実の父を凹ませて、なんて野郎だって思う。正直、お前の生き方は反面教師にしたいくらいバッドエンドだよ。さっきも言ったけど、お前の棺を見送った事を境に色んな人が同じような涙を流していると思う。お前のせいで告別式に流れていたビートルズの「Yesterday」「LET IT BE」が泣ける歌になっちまったじゃねーか。ユニコーンの「すばらしい日々」もしかりだ。

勝手なプレッシャーだろうけど、お前は自慢の後輩だったよ。人に自慢する時に最初に名前が出てくるような男だった。そして、いつも会うといつも俺をいじり倒してそれに対抗して俺がボケると笑う最高の客の1人だったよ。やっぱり、貴重な人間を無くしてしまったよ。お前は俺のことを「エースだ」って紹介してくれたよな、エースは1人じゃ成り立たなかったんだよ。お前がいるからこそ、エースとして成り立っていたんだと思う。

君が出した答えなのだから否定するつもりはない。君は君の人生なのだ、行けば良いさ。もう、そう割り切るしかない。遺族の涙とかも見てるけれども『故人の意志なんだ』って。とてもお前らしくない意志だけどな。 

お前のおかげで色んな人に「溜め込む人間は追い詰められる」って話をするようになってる。どこかで溜まった鬱憤を出せって話をするようになった。それがお前の死を無駄にしないって事なのかもしれないな。

お前が焼かれた翌日の9/5の午前1時、雨は台風の影響で降ったり止んだりしてる。昨日集まった人の泣き方に似てるなって思ったよ。「ヱヴァンゲリヲン」とか、タランティーノの新作をどう見たのか知りたかった。お前の目から見た30歳の風景を知りたかったよ。
棺を持ってからずっと言ってたけど、ありがとう。お前の分まで生きるなんてのは俺のやることではない。俺はお前の屍(しかばね)を越えていくよ。お前の見えなかった30歳の景色を楽しみにしながら。

【終わりに】
カワカミが何自殺だったのかなんて聞けませんでした。聞いてもしょうがないし、逆にそんなビジュアルを想像したくも無い。中学時代に『死ぬ』という言葉に対してヒステリックに反応する女性教師がいました。「過剰だな」なんて思ったけど、今思えば、彼女もそんな経験をしていたのかもしれません。「首吊り」とか「リストカット」とか「練炭」とか、書く分には自由だし、考えるのも自由。でも、実行はお前が流す涙以上の容量の涙が多くの人から流れるという事を忘れてはならない。そして、しなくてもいい後悔を多くの人がしてしまう。「声を出して泣けば、ちょっとはすっきりするかもしれない。だったら、泣いてしまいなよ。」そんな考えがより鮮明になりました。

本当は、この文章を故・カワカミケンタの携帯電話のメールもしくはミクシィに送る予定でした。でも、どちらも結局時間の経過とともに消えてしまいます。だから、俺の所に掲載する事で残し続けたいと思う。

カワカミが死んでから、Googleで彼の名前を調べたけど、全く知らない人の名前がただ羅列されてるだけでした。今後、カワカミケンタを調べた人がここに引っ掛かってあいつの、ちょっとした足跡を見て頂けたらなんて思います。

2024年9月2日の後記
さすがに17年経って日々カワカミを思い出す頻度は少ない、でもあいつの死で得た死生観はしっかり残ってる。そして、後輩と年一で行く墓参りもしかり。あいつのせいで「Let It Be」が哀しい曲になったんだよなぁという思い出と所ジョージに似た死化粧は鮮明だ。17年経ってビジュアルが変わらない所ジョージも凄いけど。

墓参りで何話すかな?ルックバッグの映画の話かな。